こうして9年の月日が流れ、アーサーも16歳。少し小柄ではあるが、この時代では大人とされる年になっていた。
普通に畑も耕せるし、井戸水だって汲みに行ける。
今日だってこっそり抜けだしたつもりだったが、水瓶を手に戻れば、家の外で心配そうに待っていた。
促されるまま家に入り、エンリケの作ってくれた朝食を摂る。
いつもの日常…のはずだったが、食事が終わって箸を置くと、エンリケは
「なあ、アーサー」
と、少し改まった様子で顔をあげた。
「そろそろ旅を再開しようと思うんやけど、どない?」
と、いつものように穏やかな口調でそう言われた時、その場の空気が凍った気がした。
「旅……そう…だよな」
そう、自分がある程度大きくなるまで、そういう約束だった。
もう大人の仲間入りをしていい年齢にまで育ったのだから、エンリケがそう言い出すのは決して不思議ではない。
むしろこんなに長い間ここにとどまって自分を育ててくれた事に感謝すべきだ。
「…うん…いいんじゃないか……今まで世話になった…な」
今の生活はあくまでエンリケの好意だ。
その時が来たら笑顔で送り出そう…。
そう思っていたのに、いざとなると、のどにつっかえたような声しか出ない。
嗚咽がこみ上げてくる。
こらえきれず涙を零すアーサーの目をエンリケは慌てたように布で拭った。
「ちょ、なんで泣くん?そりゃあ住み慣れた想い出深い育ての親の家や墓から離れるのは心残りかもしれへんけど、墓の世話とかは俺が村の人に頼んだるよ」
「へ?離れるって……」
きょとんとするアーサーに、エンリケは少し困ったような顔で笑った。
「あ~言うてへんかったか?
俺が自分が大きくなるまで言うたのは、長旅に耐えられる年齢になるまでって事やったんやけど…」
「それって…」
「当たり前やん、自分も一緒に行くんやで?
俺が大事なアーサー置いていくわけないやろ」
笑った笑みがホッとする間もなく、少し色を変えた気がした。
そろりと肩に手を置かれて、アーサーは身をすくめる。
「もうそろそろ…大人やしな…色々変えてもええ頃やし…」
音もなく近づいてくる緑の目。
ずっと親兄弟と慕った時とはどこか違う雰囲気。
「…アーサー……」
と、低いどこか艶を帯びた声で囁くように言われて、ゾクリと背中が震えた。
泣きぼくろが添えられた目が近づいてくるのを動くことも出来ないまま呆然と見ている。
緑の目が小さく笑った。
胸がドキドキして体が変に熱くなる。
一体どうしたというのだ…その目から…唇から…エンリケの全てから目が離せない。
熱い……
いつのまにか肩に置かれた手がするりと着物の襟口にまわり、襟を大きく寛げたその時…
「……っ!!」
一瞬…ほんの一瞬だけエンリケが固まった。
バッと後ろを振り返る。
「…エンリケ?」
急に力が抜けて首をかしげるアーサーの声に、エンリケはハッとしたように小さく笑って首を横に振った。
「なんでもないわ。そういえば…明日に備えてちょお畑の野菜もいで村で持ち歩けるモンと交換してもらってくるな。アーサーはここで待っといてな」
と、立ち上がり、そのまま足早にエンリケは家を出て行った。
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