微笑みを向ける男
ことり…と頭を預けている先は快適とは言えない。
ふんわりとした物に包まれている感覚はあるものの、包んだ先にあるものはゴツゴツと固い。
なのに…それを差し置いてもどこか心地良い。
抱きこまれた身体をしっかりと支える腕。
身体の下にあるものは酷く揺れて不安定な感覚を否めない状況なのに、その腕のせいで全く不安を感じない。
いまだかつてこんな安心感を感じた事があっただろうか…
心地よさに思わず口元が緩んだ。
これは夢なのだろう…
現実というのはいつも不安で寒くて心細いものだ。
だからアーサーはしっかりと目を閉じて、辛い現実へ戻る為に覚醒する時を少しでも送らせようと試みた。
ゆらゆら揺れる…ゆらゆら…ゆらゆら…
たまにとすん、とすんと縦に大きく揺れる事も…
そして時折り上からふっと覆いかぶさられるように気配があって、視線を感じる。
しかしそれはいつも一瞬で、そのあとはまたギュッと腕の中に抱え込まれて、揺れに身を任せる事になる。
どのくらいそうしていたのだろうか…
揺れが少しゆっくりになり…やがて穏やかに止まる。
まるで壊れ物にでも触れるように、そっとそっと温かい手がアーサーの頬に触れた。
――目…覚めねえ…か?
小さな声と共にかかる吐息。
視線を感じて気まずさにおそるおそる目を開けると、視線の主がまるで暗闇に差し込む朝の陽ざしのようにキラキラと眩しい笑みを浮かべた。
「丁度良かった。もう国境からはだいぶ離れたし一休みしようかと思ってたんだ」
言われてアーサーは目をぱちくりさせた。
誰に言ってる?
まさか俺?
こんな風に誰かが優しく物を言う相手は絶対に自分以外の人間のはずだ。
そんな風に思う程度には、アーサーは誰かにこんな風に優しく微笑みかけられた事はない。
どこだ?誰かいるのか?
と、あたりをきょろきょろ見回すと、頭上で小さな笑い声が漏れた。
「ああ、ここは国境と王城のちょうど中間くらいの地点だ。
よく寝てたよな。馬乗り換えたのも気づかないくらい熟睡してたな」
そう言って大きな手がアーサーの頭をクシャクシャと撫でた事で、アーサーはようやくそれが自分に向けられているとわかって、びっくりして相手を見あげる。
陶器のように白い肌に血のように紅い目……
さらさらとした綺麗な銀色の髪…
筋肉は……
ぺたぺたと手でその腕や胸元に触れてみると、全身固いそれでおおわれている事がわかる。
口は…薄めだが綺麗な形で、当然裂けてなんかいない。
剣は確かに携帯しているが握ってはいず、その手はアーサーの頭を相変わらず撫でている。
呪うようにも…見えない。
夢…なんだろうか?
アーサーが戸惑うように眉を寄せて小首をかしげると、恐ろしい銀の悪魔のはずのその人は、頭を撫でていた手をアーサーの横の木に伸ばして、そこになっていた赤い実を一つもいでアーサーに渡し、アーサーがそれを受け取るともう一度今度は自分用にと実をもいだ。
「林檎…美味いぞ」
渡された実と渡してきた相手の間で視線を往復させるアーサーの目の前で、王はそう言って自分の手の中の林檎をシャクリと一口齧る。
「ん?どうした?」
と、林檎を持ったまま固まっているアーサーの顔を、まるで子どもを気にかける大人のような様子で王が覗きこんでくるものだから、アーサーは慌ててふるふると首を横に振った。
決して見惚れていたわけじゃない。
ただ…そう、林檎、林檎をそんな風に食べた事がないだけなのだ…と、心の中で言い訳をしてみれば、口にも出していないのに何故わかったのかはわからないが、王は、あ…と気づいたように
「もしかしてお姫さんはこんな庶民みたいな食べ方しねえか。
切ってやろうか?」
とアーサーの林檎に手を伸ばしてきた。
自分はお姫さんじゃない。
…一人前の男なら出来るような事もできない手のかかるしょうもない奴とみなされた?
アーサーは焦ってまた首を横に振る。
そして慌てて王がしていたようにその赤い実を齧ろうとしたが、歯がつるつるとその赤い実の表面を滑って王のようにシャクリと男らしく齧れない。
ダメだ…人並みの事も出来ない人間だと思われる……
ジワリと溢れる涙。
泣いたらダメだ…余計にダメだと思われるのに……
そう思っても溢れて止まらない涙は
「ご、ゴメンなっ」
と焦って言う王の白くて長くて綺麗な…なのに男らしくしっかりとした指先で拭われた。
「…泣くな……悪かった。
泣かれたらどうしたらいいかわかんねえんだ。
俺様が全部悪かったから泣きやんでくれ、お姫さん」
と、ぎゅっと抱き寄せられて、なだめるように背を優しく撫でられる。
そんな王の行動にアーサーは動揺した。
何が起こっているのかわからない。
だって皆が出来る事ができなかったら侮蔑されても当たり前だし、泣いたら嫌な顔をされるか怒られるのが普通だろう?
ビックリしすぎておそるおそる見あげると、王の方が少し戸惑ったような笑みを浮かべる。
怒ってはいない…みたいだ。
視線があうともう一度、ごめんな、と、謝って、ハッと気づいたようにそうだ、と、アーサーの手から林檎を取りあげて、自分が齧った林檎をアーサーに手渡した。
「ここ、齧ったとこから齧ってみ?齧りやすいだろ」
と、齧った部分、白い断面をトントンと指差して言う。
混乱しすぎて色々考える余裕もなく、アーサーが言われるまま白い実をシャクリと齧ってみると、甘酸っぱい林檎の味が口いっぱいに広がった。
「…美味しい……」
思わず口元がゆるむと、
「だろっ?!」
と、王が嬉しそうに笑ったのでアーサーも嬉しくなって頷いた。
「さ、食うもん食ったし、あと1日ほど走れば王城だ。
お姫さん、大丈夫か?疲れてないか?」
そうして林檎を食べ終わると、王はまた手綱をしっかり握り直す。
疲れてないか?と聞かれれば疲れていないわけではない…というか、色々ありすぎて今こうしている事自体が本当に現実なのか夢なのかもわからないくらいなのだが、それを言ってどうなるものでもないだろうし、アーサーがただ頷くと、王は、そっか、と、また微笑んで
「疲れたらまた休憩入れるから言ってくれよ?」
と言うと、馬の腹を蹴って馬を走らせた。
眠っていた時と違って目を開けたまま乗る馬からの景色は新鮮だ。
なにより視点がすごく高い。
王はいつのまに脱いだのか…もしかしたら馬を乗り換えた時にでも着替えたのかもしれないが、身に着けていた重鎧を脱いで厚手のキルティングの服の上に鎖帷子、さらにその上に剣の柄と同色のプルシアンブルーのサーコートという出で立ちで、その上にマントを羽織っている。
馬で駆け抜けて行くためやや強めに当たる冷たい風からかばうように、そのマントの中にアーサーを一緒に包みこんでくれているため、温かさが心地良かった。
こんな風に人肌に保護され守られている感を感じるのはどのくらいぶりだろうか…
おそらく幼い頃に実母が亡くなって以来かもしれない。
王はこのあとも時折り休憩を入れながら馬を走らせた。
休憩中はアーサーが答えようと答えまいと勝手に話し、走っている時はその代わりに時折り抱え込んだアーサーをポンポンと軽く叩いて存在を確かめるように見下ろして来ては微笑みかける。
だから思った。
誰だ、これは?…と。
だって聞いていたのと違う。
強国の怖い相手のはずだ。
それがまるで普通の可愛らしい子どもを相手にする大人のようにアーサーに接してくるのだ。
誰なんだ?
もしかしたら…王を名乗っているが実は影武者とかなのかもしれない。
それにしては随分と存在感も威厳もある気がするが、大国の王の影武者だったらそのくらいないと務まらないのかもしれない…。
そんな疑問を頭の中でクルクルさせながらも、アーサーがそっと男に身を寄せてそのサーコートを掴むと、男はまたアーサーを見下ろして微笑んだ。
そう、誰しもが向けないそんな好意的な表情をアーサーに向けるのである。
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