いつもの満員電車…。
乗っている時間は長くはないが、朝はモロ通勤ラッシュの時間帯で、学校までスシ詰め電車で通っている。
今は冬場なのでまだ肌が直に触れる事がないから良いが、夏場だと運が悪いとべちゃっと汗まみれの腕に直接触れたり、汗に濡れたシャツに触れたりと、とにかく不快感この上ない。
さらに男ならではの心配と言えば、スシ詰めなので自分の好きに動く事が出来ず、心ならずもレディに密着する形になると、下手をすれば痴漢と間違われる事もあるらしい。
なのでアーサーはなるべく手は下の方にやらず、吊皮や手すりにつかまるようにはしているが、幸いにしてこれまでアーサーの周りに乗っていたレディ達は優しい人ばかりだったらしい。
それでも手や身体が相手に当たってしまう事があって謝罪をしても、にこやかに『大丈夫ですよ』と返してくれていた。
姉以外の世の中のレディはなんと優しい淑女ぞろいなのだろうか…
アーサーは満員電車は嫌いだが、そんなレディ達と出会うたび、心洗われるような気持になるのであった。
その日も朝からスシ詰めで、そんな周りのレディ達に恐縮して謝罪しつつ縮こまりながら電車に乗っていたアーサーは、何か後方…尻のあたりに違和感を感じた。
…感じたのだが、この凄まじく人であふれた空間で、誰しも他人に触れないで済むなら触れたくはないだろう。
…もっとはっきり言ってしまえば、
――男の尻なんて触りたい奴はいないよな
ということだ。
好き好んで男に痴漢するなんて奴はいない。
そんなのは姉の描く妄想漫画の中だけの出来事である。
今までもなんだか当たっているなと思う事はなくはなかったが、別に姉の漫画のようにいきなりシャツやズボンの中に手を突っ込まれるとか、そんな事はなかったので、本当に偶然だったのだと思う。
相手も本気で不本意なのだろうなと思えば、同情こそすれ腹が立つ事はなかった。
こうしてこの日も当たり前に満員電車に揺られて学校の最寄り駅に行く電車に乗り換える駅で降りたが、何か注目を浴びている気がする。
――…あの……
と、皆がどことなく遠巻きにする中、駆け寄って来たのはちょっとふっくらとした優しそうなお姉さんだ。
なんだろう?と思っていると差し出されるポケットティッシュ。
料理が美味しい事で評判の居酒屋の広告の紙が入ったそれから広告だけをしっかりと抜いてポケットにしまったのは、今度行くつもりなんだろうか…などと、そんな事を思いながら
「はい。何か?」
と、答えると、彼女は少し躊躇して考え込んで、しかし結局顔をあげた。
「あの…ね、後ろ…ついてるから…。これで拭いた方が良いと思う」
そう言うと、じゃ、講義に送れるから…と、たった今アーサーが乗っていた路線の反対方面へと走って行ったので、もしかしてギルや姉と同じ大学だったりするのかな?と、考えながら、アーサーはもらったポケットティッシュに目を落とした。
――なんだろう…?…後ろ?
不思議に思って通行の邪魔をしないように端に寄り、コートの後ろを手繰り寄せてみると、ヌルっとした不快な感触。
ぎょっとして何かで濡れた手をおそるおそる確認して、アーサーは悲鳴をあげそうになっった。
粘着性のある白い液体…。
さすがに高校生の男なので、それが何であるかわからないということはない。
気持ち悪い…気持ち悪い…気持ち悪い!!!
もらったポケットティッシュでまず汚れた手を拭いて、アーサーは急いでトイレに走り、少し迷って多目的トイレに駆け込んだ。
普段使う事はないが、これを付けた相手は確実に男なので、男子トイレで万が一にでも遭遇すると怖い。
なのでトイレの中に入るときっちり鍵をかけ、荷物を置き、そしてコートを脱いで汚れた部分を洗う。
本当にありえないと思う。
レディでもない貧相な男子高校生にこんなことをして何が楽しいんだろうか……
これから学校なので泣いて赤くなった目でいくわけにはいかない…と、必死に涙を堪えて、濡れて冷たくなってしまったコートは手に抱える。
そしてトイレから出ようとしてふと思う…。
――もしこれを付けた男に待ち伏せされていたらどうしよう……
どきん…どきん…と心臓がうるさいほど鳴っている。
怖い…本当に怖い。
このドアの向こうに変な男がいたら……
貧血を起こして倒れそうだった。
なまじ普段から姉の薄い本を読まされているだけに、気持ち悪い男に性的な目で見られるというような妄想がクルクル脳内をまわる。
だが、それこそいつまでもここに居て、通勤通学の時間が過ぎて人の目が減った駅でそんな輩に遭遇する方がもっと嫌だし、そもそも誰かが迎えに来てくれるわけでもないのだから、出て行くしかないのだ…。
そう何度も何度も自分を叱咤して、トイレのドアノブに手をかけて、ソッとドアを開けてホッとする。
そこには誰か待ち伏せていると言う事もなく、アーサーは慌てて外へ出ると、自分の学校へ向かう電車に飛び乗った。
コートは週末だし、姉に正直に言うと喜ばれそうで怖いので、何か汚いものをつけてしまって洗ったのだが気持ち悪いので…とでも言って、クリーニングに出してもらおうと思う。
こうしてその日はなんとか立ち直って学校の帰りにいつもの通りギルの家へ。
ここはもう第二の我が家みたいな気分でホッとする。
「…アルト…なんつ~か…大丈夫だったか?」
美味しいお菓子に美味しい食事。
心地よく甘やかされて気が緩んで顔に出てしまっていたのだろうか…
ギルがいきなり気遣わしげな顔で聞いてくるので、アーサーは反応に困って目を瞬かせた。
「なんだよ、急に?」
と、返すと、ギルベルトは
「お前なぁ…隠すなよ?」
と、はぁ~っとため息をつく。
「隠す…って?」
と、内心焦りながらもそうとぼけてみると、今度は両手で頬を挟まれ、こつんと額と額を軽くぶつけられた。
焦点が合わないくらい近くにギルの顔がある。
向こうも同じだろうに、でも、その綺麗な紅い目はまっすぐにアーサーの目をのぞきこんでいた。
「今日…痴漢にコート汚されただろ…」
「えええ??!!!!!なんで知ってるんだっ?!!!!」
いきなりの言葉に驚いてごまかす事さえできなかった。
そのアーサーの反応にギルベルトはにやりと
「俺様はアルトの事ならなんでもわかんだよっ。お見通しだっ」
と、笑う。
本当…に?…本当にっ?!!
そう詰めよれば、ギルベルトはぷはっと吹きだして、しばらく笑っていたが、やがて笑いすぎて出て来た涙を拭きながら、
「わりっ!嘘っ!さすがに無理だわっ」
と、グリグリとアーサーの頭を撫でまわしながら謝罪してきた。
いや…まあ、そうなんだろうが……
不思議に思って問いかける視線に、ギルベルトは今度は優しく頭をなでながら告白する。
「お前に朝ポケティ渡した女な、俺様のクラスメート」
「あ、あのお姉さん……」
優しそうなレディだった。
すごく美人というわけではないのだが、一緒に居るとホッとするようなタイプだ。
…その日の朝にあったことを話あうくらい仲が良いんだろうか………
「…優しそうな人…だしな……」
と言うと、そこはお見通しらしい。
「お前なぁ~~、なんか変な事考えてんだろっ。
別にそういうんじゃねえからな?
俺様もともとは飯って食えて栄養が摂れれば良いって人間だったんだけど、アルトと一緒に食うようになってから美味いモン食わしてやりたくなってな。
あいつにたまに料理教わってんだよっ。
なんつ~か、美味いモン食ってそうな奴だろ?」
いたずらっぽく笑うギルベルトに、まんまと騙された悔しさもあって
「お姉さんに対して失礼だろ」
と、少し睨んで見せると、ギルベルトは悪びれた様子もなく
「健康的な範囲だし不健康にガリガリより全然見てて気持ち良いじゃねえか。
実際やたらと媚びたようなとこもなくて、気持ち良いやつだぞ?
なんかな、今朝も『ティッシュ差し出した時にね、気づいたのよっ!私あのお店行きたくてそれもらったんだわって。あれ割引券入っててね。だからこっそり割引券だけ抜いてからあげちゃった』って」
「あ~、それっ!覚えてるっ!!面白い人だなって思ったっ!!」
やっぱりそうだったのかっ…と、アーサーが吹きだすと、ギルベルトも
「だろっ?!」
と吹きだす。
「その話聞いて学校とか路線とかでもしかしてアルトか?って思って、この前エリザに一緒に撮らされた写真見せたらそうだって言うからな、礼言っといたからな」
「え…礼って……ギルが?」
「おう、恋人なんだから当たり前だろ」
「え…あの…大丈夫なのか?」
「…なにが?」
「…その…俺と恋人って………」
「…あ~、一応18歳未満だから清い仲だとも言ってあるから平気だろっ」
「そうじゃなくって…っ!」
あまりにあっけらかんと言うギルベルトにアーサーの方が戸惑った。
「男の…恋人って…それも俺みたいな…」
自分で言っていて泣きそうになるが、ギルベルトは苦笑。
「俺みたいなって…お前なぁ…。
痴漢が血迷うくらいには可愛い恋人持って、俺様いつも気が気じゃねえんだけど?
同性ってことなら、別に俺の周りはあんま気にしねえし、そのくらいで壊れるような人間関係でもねえからな?
それよりそういう危ない目にあった時にちゃんと頼ってもらえなかったって方が問題なんだからな?
反省しろよ?」
と、メッとばかりに少し眉を寄せて見せる。
「…頼って……いい…のか?」
と、おそるおそる聞くと
「当たり前だろっ!ちゃんと頼れっ!!」
と言われてなんだかホッとしてさらに泣けてきて、しばらくギルベルトに抱きついてスンスンと泣いていた。
こうして朝のショックがほぼ消え去って、帰りは落ちついた頃、ギルベルトがちゃんと自宅前まで送ってくれた。
「月曜からはしばらく俺様がアルトの駅の改札で待ってて、学校の最寄り駅までは送ってやるからな。ちゃんと改札で待ってろよ?」
と、それはギルベルトのマンションで申し出られた事をもう一度確認。
ギルベルトがいればきっと何も怖いことなんて起きないのだ…。
そんな風に安心しきって頷いて、アーサーは自宅門をしっかりくぐったところでギルベルトと別れた。
しかし…その安心感は自宅ポストを確認したところで、崩れ去るのである。
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