「過呼吸だな…。ゆっくり息してみな。」
との声に、さきほどよりは若干楽になりかけた息に、ゆっくり深呼吸を繰り返していると、どうやら呼吸は治まってきたようだ。
それを目の前の男も察したのだろう。
黙っているとキツそうに見える目に笑みを浮かべて、
「おし、もう大丈夫そうだな。」
と、アーサーの口元から手を離した。
「…ったく、あっぶね~。お前に何かあったら俺国に突き出されるとこだったわ。」
そうは見えないが指名手配犯か何かなのだろうか…
アーサーは苦しさに少し潤んだ目で男を見上げた。
その視線に男は苦笑する。
「あ~、俺ギルベルトっていって、元王国軍の軍医なんだけどよ、かすり傷の王族放置で重症の一般兵の処置先にしたら反逆罪とか言われてな。
それで旧友のフランのいるこの船に逃げ込んだってわけだ。
まあアントーニョ自身も知らねえ仲じゃねえし、普通にかくまってくれたわけなんだけど、あいつが珍しく誰にも見せないで抱え込むくらいのお気に入りのお宝ちゃんを死なせたとかあったら、容赦なく国に反逆者として突き出されるか、ハルバードで切り刻まれてサメの餌にされるとこだったぜ。」
ケセセっと特徴的な笑い声とともに、男はアーサーの無言の問いかけを察してそう説明をした。
勘と察しの良い男だな…と思いつつ、しかしアーサーは
「…元お宝な。」
と、そこは訂正しておく。
「へ?」
「…確かに俺をここに連れてきた頃は気に入ってたのかもしれねえけど…今はもう飽きてる。」
自分で言っていてなかなか堪える事実で、アーサーは溢れ出そうになる涙を見せないようにとくるりと寝返りをうった。
「ちょ、全然飽きてねえだろっ。何を根拠にっ。」
「……」
「飽きてたら倒れるまで抱き潰さねえから…」
「おまっ!何をっ!!!」
思わずガバっと飛び起きて反転し、男の襟首をつかむと、男は苦笑交じりにアーサーの襟元を逆に指さした。
「見ようと思わなくてもめちゃ見えてんだけど…。
もう誰に見せるわけでもねえんだろうに、なんか独占欲丸出しって感じの痕の付け方だよな。」
呆れ半分そう言う男に、アーサーは絶句した。
これまでアントーニョ自身にしか会うことがなかったので全然気付かなかった。
しかし男が差し出す手鏡に改めて自分を映してみれば、なるほど白い首や肩、胸元まで、点々と紅い痕がついている。
アントーニョは抱く時は優しいが激しいので、おそらく日々キツく口付けられている今は服で隠れている場所も、同様に紅い花が散っているのだろう。
そんな事を考えていると、夜の寝所の中での激しくも甘い大海賊の様子が思い出されて熱があがる。
真っ赤な顔で慌てて無言で襟元を隠すアーサーにギルベルトは苦笑した。
「ま、俺様は名医だからよ、体調だけじゃなくてメンタルな事でも相談にのるぜ?
物理的にお前さんの望むもんはアントーニョが何でも手に入れてくれるだろうしな。
あいつに言い難い不満とかがあったら俺様に言ってもらえば出来る限り対応すっからよ…だからさ……あいつ嫌わないでここに居てやってくれよ。
お前にしてみたら、勝手に気に入られて、いきなり連れてこられて迷惑だろうけどよ。
バレたら下手すりゃ一つの国と事構える事になりかねねえのに、ただの知り合いの知り合いにすぎねえ俺様を匿ってくれるくれえ良い奴なんだよ、あいつ。」
と、そこで少し真剣な顔で言うギルベルト。
その言葉とギルベルトの態度にアーサーは改めてアントーニョの交友関係について思った。
アントーニョには自分と違って、必要とし好いてくれる友人がいるのだ…。
それでなくても自分はここでアントーニョだけを待っているしかないのに、アントーニョは外に出て、男でも女でも好きな相手と遊んで、気に入ったらここに戻ってこない…いや、アーサーを放り出して相手をまたここに住まわせる事もできるのだ…。
「それで?
俺はあいつだけにしか会えずにいて、世間に適応できなくなった頃に、俺に飽きたあいつに放り出されるのを待てば良いのか?」
この、おそらく善良な男にそんなイヤミを言っても仕方ないと思うものの、どうも情緒不安定なのか止められない。
「俺はただ俺のつまらない人生に止めを刺して欲しかっただけなんだっ!
こんな事望んでないっ!
終わりをただ待つ事なんて望んでねえんだよっ!」
本当にただの八つ当たりだ。
彼を責めても仕方ない。
彼にとっては…いや、本人の周りにとっては確かにアントーニョは良い奴なんだろう。
彼はそれを伝えようとしただけだ。
ヒックヒックとしゃくりをあげるアーサーを、ギルベルトは静かに見つめた。
そしてしばらく考え込んでいたがやがて、
「お前がなんで死にたかったのか、どうしたら死にたくなくなんのかはわかんねえけどよ…」
と、ギルベルトはあくまで穏やかに口を開く。
「あいつは飽きねえよ。お前に飽きたりしねえ。
あいつ確かにあのツラだしな、モテたし、実際、色々浮名流して遊びまくってたんだけどよ、遊びの相手は自分のエリアに連れ込んだりしねえんだ。
さらに、遊びなら派手に遊んで派手に見せつける。
でも本当に大事なモンは他に取られねえように他に見せずに隠して抱え込むんだよ。
この船は奴の大切なモンを積み込んだ宝箱で、俺様もどうやら仲間の一人として受け入れてもらえて、それなりに見捨てずに面倒見てもらえてんだけどよ…さっきも言った通り、お前さんになんかしたら切り捨てられるくらいじゃすまねえよ。
乗船した時期は俺様の方が早くても、お前さんは奴の一番だ。
なにせこの船の中で一等奥深い、あいつの寝室に住まわされてんだからな。」
「それは…俺を連れてきた役割がそういう事だからだろ…」
自分は医師でも料理人でも…ましてや戦闘員でもない。
ベッドの中で使う人間だからベッドのある部屋なんだ…と、枕を抱きしめたままグスっと鼻をすすりながら主張するアーサーに、ギルベルトは肩をすくめた。
「言っただろ。あいつは寝るだけの相手なんか船に乗せやしねえよ。
今までだって毎夜のように奴の方から陸に遊びに行ってたしな。
ましてや船団の中の頭が陣取る主船の自分の寝室なんかに幽閉する必要ねえだろ。
寝るだけなら別の部屋を用意すりゃいい。」
言われて見ればそうだが……
相手は大海賊で、強くて財力もあって、そのくせ精悍な中に甘さと男の色気のようなモノがあふれていて…きっと皆が惹かれている男だ。
――好きや…
吐息と共に耳元に囁かれるセクシーな声音。
イントネーションが独特なのに、それが妙に色っぽく響いて脳と身体を甘く蕩かせる。
きっと彼がその気になれば男でも女でもあっという間におちるだろう。
そんな人間がなんの取り柄もない、柔らかい身体の女ですらない自分のような人間に一時でも興味を持ったのがそもそもおかしいのだ。
“信じない”
そう言葉に出さずとも大きなグリーンアイが雄弁に語っているのに気づいて、ギルベルトはまた少し考えこんで、やがて肩をすくめた。
「いいぜ。証明してやる。
お前今から寝たフリしてろ。何があっても反応すんなよ?
目をつむってじっとしてるんだ。いいな?」
ギルベルトは半身起こしたアーサーの肩を軽く押してベッドに寝かせると、肩までしっかりブランケットをかける。
「いいな?絶対に寝たフリ崩すなよ?」
と、ピシっと指さしてそう言うと、ギルベルトは立ち上がってドアの所まで向かうと呼び鈴を鳴らした。
そして何やら耳打ちした手下が去って数分もたたないうち、ドタバタとすごい足音が近づいてきた。
バタン!とドアが開いたのが音でわかる。
「ギルちゃんっ!アーティはっ?!!」
と、自分といる時の落ち着いた様子と違って、随分と焦った様子で入ってきたのは、アントーニョだ。
声でわかる。
「おー、来たか。まあ落ち着け。」
と、思い切り焦った様子のアントーニョにとぼけた様子で応対するギルベルトに、アントーニョはイライラした様子を隠すことなく、
「落ち着いてられるわけないやんっ!!
すぐどうこうない言うたのはギルちゃんやろっ!!」
と、ギルベルトの襟首を掴んだ。
「あ~、すぐどうこうではねえから。
嘘はついてねえ。
ただこのままじゃ今にどうこうなる。」
「どういうことやっ」
「そのまんまだよ。
海上生活はお姫さんの体力をひどく奪ってる。
今回倒れた原因もそれだ。」
「……どないすればええん?」
「…陸地に戻してやれ。
衰弱死させたくなけりゃ、開放してやれよ。」
「……!」
息を飲む気配がする。
ひどく空気が重い。
そして、そのギルベルトの発言は先ほど言っていたこととまるで真逆で、アーサー自身もブランケットの中で驚きに身を硬くした。
コツコツとブーツのかかとが音をたて、人の気配が近づいてくる。
手が近づいて来て、ソッと額に触れ、日々武器を握っている手とは思えぬ繊細さでアーサーの髪を撫でた。
「………嫌や……」
喉の奥から絞り出すように漏れる声。
聞いたことのないほど弱々しい響き。
「…絶対に嫌や……」
頭に触れたままの手から震えが伝わってくる。
「…この子だけは手放さへんっ!
親分の唯一の宝モンやでっ!」
「…じゃあ死なせるか?」
「返さへんでも、なんか方法あるやろっ?!
なんなら島一つ買うてもええっ!
夜はそこに戻って休ませたらええやんっ!」
「買うって…どうやって…」
「ジジイの頃のコネ使うて裏から手回してこっそり買うて、そこに基地でも作ったらええわ。」
「…今まで貴族や国との馴れ合い嫌さに爺さんの頃のコネ使わなかったんじゃねえのか?」
「恩義にならんように、島の代金とは別にそれなりの仲介料も払ったるわ。
…この子には変えられへん。
どっちにしろもう、親分、昔なじみにちょっと便宜計ってもろうてもうたし…。」
「……?」
「さっきの王さんの使者な、ジジイの頃に付き合いあった爺さんやったんやけど、アーティー返せって身代金持ってきてん。
せやけど、病死してもうたから堪忍、王さんにも謝っといてって嘘ついて、帰ってもらってん。
たぶん…信じてたから王さんには取りなしてくれてると思うわ。」
アントーニョの方が使者を呼んだのかと思えば、実は逆だったのか……。
アーサーは驚いたものの、一方で納得した。
アーサーを取り戻そうと身代金を用意したのは、曲がりなりにも一族の者が海賊に囚われたまま為す術もないと思われたくはないという大貴族のプライドから長兄が手配したのだろう。
おそらく病死と聞いて内実はホッとしているに違いない。
まあそんな事はどうでもいいのだ。
実家に居場所がないなんて事は今に始まった事ではない。
それより問題は大海賊の方だ。
今のギルベルトとのやり取りでなんて言った?
“唯一の宝物”?
自分のためにずっと使わずにいた祖父のコネを使った?
何故??
混乱した頭の中でギルベルトとアントーニョの言葉がクルクルと迷走する。
「…なあ……それじゃあかん?
夜だけはちゃんと陸地で休ませたるから……それでもこの子死んでまう?」
まるでひどいいたずらをして親に許しを乞う子どものような心細気な声音。
そしてさらに意外な…意外過ぎる言葉が出る。
「それでもどうしてもあかんようなら、俺の方が船降りるけど…あと任せられるような奴おらんし…ギルちゃん頭張るか?」
今何といった?!
船を降りるって…海賊をやめるってことか?!
自分のため?!
心の奥底からじわじわと温かいものがあふれでてきて、期待してしまいそうになる自分に慌ててストップをかけるが、それでも溢れでてくるものが止まらない。
「あ~…それはマズイだろ。
……ちょっと脅しすぎたか。」
ギルベルトもアントーニョがそこまで考えるとは思ってなかったのだろう。
少し困った声音になる。
「…脅しすぎって…なんや、嘘なん?」
と、そのギルベルトの言葉にアントーニョの声が不穏な響きを持つ。
「い、いやっ。嘘じゃねえよっ!ちょっと大げさに言っただけで。
弱ってんのはホント。
気をつけねえと何かあるかもしれねえのも本当だ。
今回、実際に倒れてるわけだしな。
つまり…あれだっ、お前は脅しでもしねえと、お姫さんの体力考えずに毎晩のように無理させるくせに、ちゃんと健康管理させねえから。
たまにはちゃんと医者の俺様に体調管理させろって事だ。
手遅れになってから見せられても困るし、お姫さんになんかあったらお前崩れるだろうし、お前崩れたら皆露頭に迷うし…特に俺様やフランは一応指名手配犯なわけだしな。」
「…他に見せたないねんもん。
それでなくても無理矢理連れて来て嫌われとるのに、他に仲良し出来たら余計に好かれへんやん……。」
「…お前なぁ…」
「しゃあないやん。好きやねんもん。
独り占めしたいし、他の男近づけたないし、俺だけ見とって欲しいし…。
…ジジイが死んで、おっちゃんも死んで、ロヴィとフェリちゃんが船を出て行ってもうて、一緒にあの子ら守ってこ思うとった仲間との関係も微妙になって…。
海賊団自体は相変わらず強くて戦いにも勝ち続けとって、金も力も相変わらずあるんやけど、なんのために戦っとったのかわからなくなってきてた時にこの子見つけて…初めて見た瞬間に、この子がもし俺の部屋で俺の事待っとってくれたら、何があっても生きて帰れる思うたんや。
あれからは親分、この子がおるこの場所を確保するために戦っとるんや。
この子は親分の手に残った最後のお宝や。絶対に手放せへん。
手放せへんのやっ。
せやからこの子手放さへんためにはなんだってやるで。」
「あ~はいはい。じゃあとりあえず最低1週間に1回は定期健診な。
体調悪そうじゃなきゃ問診でいいから。
何度も言うけど俺様は惚れた女以外にゃそういう意味で興味ねえから安心しろ。」
「しゃあないな…。
そのかわりしっかり体調管理したってや。」
そう言いながらアーサーの髪を柔らかく撫で付ける手があまりにも優しくて、少し切なさを含んだ幸福感に泣きそうになった。
今この瞬間…自分は確かにこの大海賊に愛されているらしい。
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