Seal-封印_後編_1

破綻の足音


国の化身の存在は一部の王族と貴族しか知らない。
特にイングランドは元々城で生活せず、しかもここ数十年に渡ってスペイン帝国内のスペインの邸宅で暮らしていたため、その存在は知っているはずの王族にすら、ほぼ忘れ去られていた。

それはイングランドにとっては幸いだったと言っても良い。

たとえ始まりは政略結婚だったとしても、2人は確かに愛し合っていたし、お互いがいれば幸せだった。

スペインの側の王族も、逆ならとにかく、イングランドの化身の側が自国に居ることでこれといって不利益を被る事もなかったため黙認を続け、国同士のゴタゴタはとにかくとして、一歩邸宅に入ればそこは2人の幸せな家庭だった。

しかしそんな和やかな生活の転機は女王と王の結婚の数年後、女王の病と年齢的なもので、子どもを産むのがほぼ不可能になったあたりに起きる。



「イングラテラ…具合はどないや?
なぁ…少しでもええから食べ。」

スペインは食事のトレイをベッドの横のサイドテーブルに置くと、幾重にも重なった白いレースで覆われた天蓋付きベッドの中をのぞき込んだ。
そこには真っ白なフトンに埋もれるように、最愛の花嫁がグッタリと横たわっている。

結婚して一緒に暮らし始めて60年弱の月日が流れていたが、国情が色々あろうともお互いの愛情は変わること無く、また、イングランド自身は公式の場に出すことはなかったため、スペインの小さな城とその周りのほんの小さな領土内は、穏やかで優しい時間が流れていた。

外の流れから隔絶したこの空間の中にのみ目を向けていれば幸せだった。
二人で食事を取り、刺繍をするイングランドの横でたわいもない話をしたり武器の手入れをしたり…特に天気の良い日にはランチを持って森の花畑に可愛らしい花嫁の小さな友人達に会いに行ったりもした。

物心ついてある程度たった頃には異教徒との戦いに身を投じ、日々戦乱の中にいたのが嘘のように、それは優しく温かで…しかしどこか切ない儚さを感じさせる幸せだった。

はにかんだような…幸せそうな笑みの裏で、その幸せが消えてしまう事にイングランドはいつも怯えていたようだったが、それはスペインも同様だった。

幸せというものから縁遠かったという意味では、二人は似たもの同士だったのかもしれない。

失うことを互いに恐れた。
恐れるがゆえに可能な限り寄り添い、片時も離れなかった。
お互いにお互いを失うことだけが怖かったのだ。



そんな2人の秘かな不安が現実化したのは1年ほど前だった。

自分の血を継いだ跡取りを残せない…
妻であるイングランドの女王の病気でそう判断したスペインの王が血縁による緩やかなイングランドの支配を諦めたのがきっかけだ。

おそらく余命いくばくもないであろう女王が亡くなれば、スペインのイングランドに対する拘束力が急激に弱まる。
たとえ国の化身を自国に置いておいたところで、さして影響力を持てないのは、女王の母であるスペインの王女が離婚された事で立証済みだ。

それならば自分の影響力が及ぶうちに…と、王は妻である女王に、スペインの代理でフランスと戦うよう要請して、政略結婚ではあったものの彼を夫として愛していた妻はそれを了承した。

国が疲弊し、上に立つ女王が病に伏せる中、当時覇権国家であるスペインに次ぐ大国であるフランスと戦って勝てるわけがない…それは誰の目にも明らかであった。

それでも子どもが産めない自分から夫の愛が離れるのを恐れた女性は、敢えてそれを強行したのである。

自らの母も男児を産まないことで夫から離縁され、愛を失った妻の悲しさを見て育った彼女が愛を失うまいと思うのは仕方のないことかもしれない。

しかしそれでも彼女は普通の女性ではなく女王だった。
その感情の発露から出た軽率な行動の結果、敗北したイングランドは多くの国民の命と、そして、大陸におけるイングランドの唯一の領土であったカレーを失うことになった。

それはなおかつ、イングランドを体現する国の化身の身体にも当然ながら大きな影響を及ぼす。



身体の一部を強引に引きちぎられるような苦痛。
それに伴う発熱で、イングランドは寝込んだまま、一日をほぼベッドで過ごすようになっていた。

食欲もなく、一日に果物をほんの一欠片口にすれば良いくらいで、元々強くなかった身体がどんどん衰弱していった。

元気になるなら何でもしてやりたい…そう思うのに、スペインにはどうすることもできない。

目の前で最愛の花嫁が苦しみながら日に日に痩せ衰えて行くのを、気の狂いそうな苦しみの中で見守っていた。

「…ほんま…変わってやれたらええのにな……」
初めて会った日に熱を出した時のように、泣かないイングランドの横でスペインが涙をこぼす。

決して丈夫とは言い難かった小さな島国にトドメを刺したのは自国の上司だ。
その責をせめて自分が負えればいいのだが…いや…あるいは最愛の花嫁が自分の目の前で苦しんで衰弱して最終的に消えてしまう…そんな最も過酷な形でそれを負わせられるのか……。

――それだけは……ほんま…それだけは堪忍したって……
スペインは力なく椅子に座ったまま、頭を抱えた。

何も要らない…ただ愛する花嫁と静かに暮らせればそれでいい…そんなささやかな幸せさえも国である身はのぞめないのだろうか……。

そして…もしこのままイングランドに何かあったとしても、人で在らざる国の化身としての身では、あとを追う事すらできず、絶望と嘆きに心から血を流しながら、苦痛しか残らない生を続けなければならないのだ…。

もしそんなことになったら…と、思うと、気が狂いそうだった。

――神様…神様お願いや…
時間があれば呼吸をするように心の中で唱えるその言葉が神に届く日は来るのだろうか…。






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