エピローグ
「…あの、スペイン…。もう大丈夫だから…」
「あかんよ~。元気になるまでちゃんと寝とき。ほら、あ~ん」
自分で食べられると言っても飽くまで差し出される匙。
それ以上拒否しても無駄だと言うのはここ数日で身にしみたイギリスは黙って口を開ける。
恥ずかしいし、どうしてこうなった?と思わなくはないし、それまでの状況を考えるとあまりに現実味がないのだが、まるで昔のようにスペインに甘やかされるのは心地良い。
夢なら夢で良いか…と、イギリスはこの状況を甘受する事にした。
それは7月4日の事らしい。
らしい…というのは、その数日前からイギリスは体調が悪くて寝込んでいたので、意識が朦朧としてひにちの感覚がなくなっていたからだ。
普段はひとりぼっちの自宅で誰かの忘れものの子犬を預かった事がきっかけだった。
ラブラドール・レトリーバーの子犬。
黒い毛並みで人懐っこくて世話焼きなところは、国情ゆえに距離を取らざるを得なかった元夫をどこか思わせて、普段なら憂鬱な6月の終わりに少し幸せな彩りを添えてくれた。
それでも毎年体調を崩す7月4日にはやはりひどく体調を崩していて、このまま死ぬのかも…と思って朦朧とする意識の中で目を開けると、なんとも驚いた事に目の前に夢にまで見た元夫、エスパーニャの姿があったのである。
今では嫌われて視線も合わせてもらえなくなっていた最愛の相手。
一緒に暮らしていた頃、辛い事があって、でも心配をさせてはいけない、煩わせてはいけないと、隠れて泣いていると、いつも見つけ出して慰めてくれた時と同じように、あの綺麗なエメラルドのような瞳がジッと切なそうに心配そうに自分をみつめている。
愛されていた頃と同じ表情…
あの戦いを境に永遠に失ってしまった幸せ…
これは自分を憐れんだ神様が死ぬ前に見せてくれている幻なんだろう…。
ありえない…と知りつつも、でも縋りたかった。
そんな気持ちが「…迎えに…来てくれたんだな……」という言葉として出たのだが、幻はやはり死ぬ前の慈悲なのか「…おん。一緒に帰ろう。親分のとこへ戻っておいで」と、イギリスが一番聞きたかった言葉を言って抱きしめてくれる。
それが嬉しくて涙があふれ出た。
泣いて泣いて…やがて幸せな気持ちで意識が遠のいていった。
と、そこで自分の人生は終わったのだと思っていたのだが、イギリスはその後何故か目を覚ました。
夢だったのか?と思うところだが、なんと目を覚ましても相変わらず綺麗な黒髪に褐色の肌の男が目の前にいる。
ゆっくりと目を開いて視線が合うと、思い詰めたような表情をしていた男らしく整った顔が、ホッとしたようにほころんだ。
そしてまるで壊れものにでも触れるように、その長い指先がイギリスの頬を撫でていく。
少し垂れ目がちのグリーンの瞳が少し潤んで、指先と同じく少し震える声で
「良かった…気付いたんやね。このまま失くしてしもうたらどないしよって思うた。
な、目ぇ覚めたんなら少しでもええから水分取って飯食おう?」
と言われて何かがおかしいと感じた。
これは…現実?目の前にいるのはスペインなのか?
しかしそれにしては優しい。
あの日…自分はエスパーニャを騙していたのだと告げたあの日から、自分はエスパーニャ…のちのスペインに憎まれていたはずである。
そう主張すると、スペインにギュッと抱きしめられた。
――堪忍…堪忍な…
と泣きながら謝罪される。
酷く震えながら、それでもしっかりとイギリスを腕の中に閉じ込め、スペインは言う。
愛情を疑ってすまなかった。
知人から預かっていた子犬がイギリスのところにいると聞いて引き取りにきて、ひどく衰弱して死にそうな様子で寝込んでいるイギリスを見て、やはり自分はイギリスを愛していると気づいて死ぬほど後悔した。
そして子犬を部下に預けて帰らせたあとも看病のために残って、悪いとは思ったが宝石箱の中を見て、イギリスの真意を知ったのだと…。
顔から火が出るかと思った。
どうしてよいかわからず動揺しているイギリスに、とりあえず養生しろ、元気になったら自分と一緒に暮らそうとたたみかけるスペイン。
答えていいやらどうやらわからないイギリスだったが、スペインに「ええな?」と強く言われると昔の癖でついつい頷いてしまう。
それからはもう昔に輪をかけたような甘やかされっぷりだ。
そのせいか例年よりもひどかったはずが、例年と違って見る見る間に回復していく。
少しでも衰弱した身体に負担を与えないように…と、朝起きればベッドまで朝食を運ばれ、スペインの手で食べさせられ、濡れたタオルで体を隅々まで綺麗に拭かれ、着替えさせられる。
その後はシーツを換えたベッドでまた寝かされて、もちろんその横にはスペインの姿。
――片時も目ぇ離したないから…
と言う言葉通り、洗濯と食事の支度以外はほぼ傍らに付き添っている。
その代わり…というのもなんだが、不思議な事にこれも例年と違って、この時期に差し入れにくる髭も来ない。
7日頃に髭の悲鳴のようなモノが聞こえた気がしたが、スペインが気のせいだと言うので気のせいなのだろう。
こうしてすっかり元気になると、そのままスペインの家に連れて行かれ、今に至る。
その後…不思議な事に会議でフランスがチャチャを入れて来る事もアメリカが無謀な事を言いだす事もなくなり、さらに7月に体調を崩す事もなくなった。
本当に不思議な事が続く中、今日もイギリスはスペインに甘やかされ愛されている。
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