長く生きていて戦争なども体験していれば当然そんな経験も多々あるわけだが、平和な時代になって国が何かの前線にということも、国土が戦場になることもなくなった現代では、久しくそんな事をしたことはない。
現在身体が女性体であることが精神にも影響しているのか、単に女性になった筋力や視点の違いによるものなのか、以前なら当たり前だったそんな事が妙に不安感を煽る。
有り体に言えば…怖い。
しかしそんな不安の拠り所になるようにしっかりと握られた日に焼けた手。
小さい頃の刷り込みなのだろうか。
その手の色と感触が、ひどく安心感をもたらした。
はあ、はあ、と、自分の息遣いがやけに大きく聞こえる。
対して、自分の手を引いて前を行くヘタレとして名高いはずの兄弟の片割れは全く息を乱すことがない。
少し進んではあたりを警戒しながら、時折
「ごめんな、疲れただろ。もうちょっとだからな。」
と、イギリスを振り返って、そう気遣った。
いつも不機嫌で粗野なイメージだったロマーノだが、こうして共に行動してみると、フェリシアーノのようにまるで雲の上にいるようなふわふわとした柔らかさはないが、しっかりと大地を踏みしめて進む男の頼もしさのようなものを感じる。
「大丈夫。こちらこそ巻き込んでしまってすまない。」
と、疲労をこらえて笑みを浮かべると、
「無理しないでいいからな?どうしても疲れたら言ってくれ。小休止するから。」
と、頭を撫でる手がひどく昔を思い出させて懐かしさを誘った。
フェリシアーノにはあまり感じなかったが、ロマーノといると、ああ、こいつは奴の孫なんだ…と、しみじみ感じた。
こうして二人して南イタリアの裏道をどのくらい走ったのだろうか…。
もう戻れと言われてもイギリスにはわからないほど入り組んだ道をずっと進んだ先に、年代物…というと聞こえはいいが、ずいぶんと薄汚れた古いドアが見えてきた。
「非常用の隠れ家でベッラ招くような場所じゃねえから、汚さにびっくりするかもしれねえけど勘弁な。」
と、なんだか本当に懐かしさに泣きそうになるような困ったような笑みを浮かべながら、ロマーノはその中へとイギリスをうながした。
薄暗い照明…床に散らかった雑誌や紙くず…部屋の隅っこに放り出された洋服の山…
ちょっと不精な一人暮らしの男の部屋といった感じのその様子は、まあ想定の範囲内ではあった。
「ホント汚くてわりいな。
でもここは、バカ弟すら知らねえすげえわかりにくい、裏街の中でも地元を知り尽くしてねえとたどり着かねえような場所にある隠れ家で、とりあえず追手から身を隠すには最適なんだ。
だから次の避難先のあたりがつくまでは我慢してくれな。」
恐縮しながら椅子の上に積み上げてあった雑誌を下ろしてその上を手で払うと、その椅子をイギリスに勧めて、ロマーノは小さな冷蔵庫からミネラルウォータを出して渡してくれる。
ずっと歩き続けて乾いた喉に、冷えた水が心地いい。
イギリスがそれを飲んで一息つくと、
「ちょっとこれから状況調べて避難先検討すっから、そのへんの雑誌でもめくってひまつぶししててくれ。冷蔵庫のモンも適当に飲み食いしてかまわねえから。」
そう言ってロマーノは奥のどうやら寝室らしき部屋にあるパソコンに向かった。
一応ロマーノのいる部屋へのドアは開いているものの、一人になった室内。
イギリスは改めてグルリと中を見回した。
まず床に散乱したゴミをゴミ箱へ。
乱雑に色々な本やら雑誌やらが突っ込まれた本棚は綺麗に入れなおすとスペースが空いたので、そこに床やらテーブルやらに散らかっていた雑誌を種別ごとに分けてしまう。
こうして片付いたテーブルを台拭きで綺麗に拭いて、そこで洗いっぱなしで放置したためシワだらけになって部屋の隅に放って置かれていた洗濯物にアイロンをあてた。
いつでも肌身離さず持っているソーイングセットで、一部取れかかっていたボタンをしっかりと付け直し、ほつれていた裾も縫い直し、全て綺麗にたたむと、一旦それまで自分が腰をかけていた椅子の上へ。
床を掃き、モップをかけ、薄汚れたカーテンは外して洗濯機へ放り込んだ。
カーテンを外したとたん南イタリアの眩しい日差しが窓から差し込んできて、部屋が一気に明るくなった。
そこでどうせならと、雑巾を持って窓を拭く。
どんどん明るく綺麗になっていく室内に、なんだか楽しい気分になってきて、ついつい鼻歌が口をついて出る。
いつもよりも随分と高く澄んだ声は我ながら可愛らしくて、なんだか世界中から恐れられ、嫌われている自分ではないような気がして、心がはずんだ。
窓を開けて窓の所にある手すりを綺麗に拭いて、そこに洗いたてのカーテンを干そうと思う。
自国と違って晴れ渡った空の下なら、すぐ乾くだろう。
「毎日こんな洗濯日和だと楽しいのにな♪」
と、ごきげんで薄いカーテンを手すりに引っ掛け、洗濯ばさみで止めようとしたところで、カーテンが滑り落ちかけて、慌てて手を伸ばしたイギリスはバランスを崩した。
「あぶねえっ!!」
落ちるカーテンをしっかり掴んだのはいいが、自分が一緒に落ちそうになったイギリスの上半身は、しかし腰のあたりを後ろからしっかり支える手のおかげでなんとかバランスを持ち直す。
「気をつけろよ。」
との声に振り返ると、そこにはいつのまにかこちらの部屋に戻ったのか、ロマーノが立っていて、そこでイギリスはハッとした。
…勝手に部屋いじらないでくれよっ!……
…君は俺の母親かい?……
…ほんと、こういうおせっかいは迷惑なんだよ……
頭の中で元弟の言葉がぐるぐる廻る。
(…どう…しよう……)
無意識にやっていた…が、元弟でもあんなに怒られるのだ。
他人の部屋を勝手にいじるなんて、とんでもないことをしてしまった。
「…ご…ごめん……」
プライベートだと元々ゆるい涙腺が、女の子になってからはさらにゆるくなっている気がする。
じわりと涙が溢れ出て、イギリスは慌てて手の甲で目元を拭った。
それに対してロマーノは怒ると言うよりは慌てた様子で、
「わ、わりっ!別に怒ってんじゃなくて…落ちたら大変だからってだけで……
あ~、もう泣き止んでくれよ、ベッラ。俺が悪かった。怖がらせて悪いっ!」
と、おずおずとイギリスを抱き寄せた。
「なあ、とびっきりのカプチーノ淹れてやるから。
頼むから泣き止んでくれよ。」
上から甘やかすようにそう言う様子がやっぱりあの男の孫だ…と、なんとなく安心して甘えたくなり、イギリスはそのシャツの胸元を握りこんだまま、
「…うんと甘いのがいい。」
と、上目遣いにロマーノを見上げてねだった。
それにロマーノは一瞬止まって、少し頬を染めて、それから
「ああ、待ってろ。」
と、満面の笑みを浮かべてイギリスの頭を撫でると、反転してミニキッチンへと向かう。
「あ、掃除させちまって悪かったな。なんか綺麗になってて驚いた。」
と、少し照れたような…でも笑みを含んだ声で言うところをみると、ロマーノはイギリスのしたことを怒ってないらしい。
むしろ好意的に見てくれているらしい事に安心して
「いや…勝手にごめん。いつも余計な事するなって怒られるんだ…」
と、素直に謝罪が口にできた。
「へ?なんで?それひでえな。
普通こんなとこ連れてきたら、片付けてくれるどころか、思い切り引かれるか、怒って帰っちまうもんだろ。
それをなんだか楽しげに掃除とかしててくれて、俺は嬉しかったけどな。」
ほい、熱いから気をつけろよ…と、ロマーノがカプチーノのカップを渡してくる。
礼を言って口に含むと、なんだか優しい味がした。
「ありがとう。…ロヴィーノは優しいな。
掃除とかって結構好きでついつい手が出ちゃうんだけど…そんな事言ってくれたのロヴィーノが初めてだ。」
すごく…嬉しい……。
と、カップに顔をうずめて言うと、ロヴィーノがまた頭を撫でてくる。
「それはお前の周りがおかしいんだって。」
「でも、お…私嫌われてるから……」
危うく俺と言いかけて慌てて私に直してそう言うと、ロヴィーノは真面目な顔で身を乗り出して、イギリスの顔を覗きこんできた。
「誰がそんな事言うんだよ。
そんな馬鹿な事言う奴らの事なんて気にすんなよ。
これからはひどいこと言われたりされたりしたら、いつでも俺んとこ逃げて来いよ。
どうとでもかくまってやるから。
…守ってやるって言える力がねえ情けねえ俺より、頼りになるやつはいくらでもいそうだけどな。」
と、そこで自嘲気味に笑うロマーノに、イギリスは慌てて首を横に振った。
「そんなことないっ!だってここは秘密の隠れ家なんだろ?
そんな大事な所に見ず知らずの人間をかくまってくれる奴なんて、滅多にいない!
すごく…すごく心強いし嬉しかった!」
そう、身の内深くに誰かをいれるというのは勇気のいることだ。
自分の持っているモノ全てを使って全力で守ってくれようとしているロマーノが情けないなんてことは絶対にない。
思わず自分も身を乗り出してイギリスがそう言うと、ロマーノはちょっと目を丸くして、それから真っ赤になって俯いた。
「あ~、ちきしょ~。とりあえず少しでも環境の良い場所にって思って、次の逃亡先のアポ取っちまったじゃねえかっ。
このままここにかくまっときゃ良かった。渡したくねぇ~!」
赤くなった顔を隠すように片手で目元を覆うと、そうつぶやく。
でもま、いったんタゲ切るのも手ではあるな…と、それから独り言のようにそう言って、ロマーノは顔を上げた。
「なぁ、とりあえずだ、馬鹿弟と逃げたって事は割れてるから、あいつが捕まってアリアといないってバレたら、次は南を探しに来る。
だからすげえ不本意なんだけど、念のためお前をいったんドイツの芋野郎のとこに逃がすから。
でも、なんか少しでもツラいこととか嫌な事とかあったら戻ってこい。
その時にはスコットランドももう南を探し終わって、よもやこっちに戻ってるとは思わねえだろうからな。
呼んでくれたらいつでも迎えにいってやるから。」
そう言って、これ、俺の番号な…と、ロマーノはイギリスに携帯の番号を握らせる。
そして、ほんとに遠慮せずに呼べよ?と念を押した。
こうしてどうやらイギリスは今日中にはドイツに引き渡される事になったらしい。
ロマーノの話だと、正確にはドイツではなく、プロイセンのようだ。
だが、
「あ~…でもホントに他の奴んとこ行って大丈夫かぁ~。
野郎ばっかだし心配になってきたな。」
自分で手配したものの、色々思うところがでてきたらしいロマーノは、ガシガシと頭を掻いて考え込んだ。
それからクルッと反転、寝室へと駆けこむと、ベッド脇の棚から何か取り出して戻ってくる。
そして…
「アリア、手、出せ。」
そう言われるまま手を出すイギリスの右手の中指にロマーノは指輪をはめた。
「これは?」
サラリと髪を揺らしながらコクンと首をかしげつつ聞くと、ロマーノは小さくため息。
「そうやって可愛い仕草とかすっとな、理性のねえ男どもが馬鹿な真似しねえとも限らねえから自衛道具だ。
万が一襲われそうになったら、指輪についてる石をスライドさせろ。
そうすっと指輪の内側から小さな針が出てくるから、それで相手のどこでも良いから刺せ。
針を通してイタリア特性の強力睡眠薬が相手の体内に入って、即効意識奪うから。
で、相手が寝たら即効逃げて俺に連絡しろ。迎えに行ってやる。」
そう言えば…ヘタレといわれるイタリアだが、ボルジア家を始めとして中世では毒薬文化が盛んな国でもあった。
いくら女性体になっても所詮はイギリスなのだし、自分なんか相手にそんな事までする奴はいないとは思うが、嫌がらせでされる可能性は皆無とはいえないので、一応ありがたくもらっておこう。
そんな程度の感覚でもらっておいたこの指輪が、のちに大いに自分の身を助けてくれる事になるのを、この時のイギリスはまだ知らない。
しかしいつの世でもやっぱり、あの幼い頃に守ってくれた大国の血はイギリスを守ってくれるのである。
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