バーチャルの終わり
毎日が楽しくて楽しくて、気がつけば2月になっていた。
二人で撮る最後のシーンまで1週間を切った頃から、アントーニョはアーサーに気づかれないように寝室のクローゼットの私物を少しずつバッグに詰めて持ち出し始める。
そして当日Xデー。
撮影は相変わらず順調で、何事もなく無事終了した。
普段なら思い切り手料理をふるまいたいところではあるが、自分がいた痕跡を極力残さないため、愛用の包丁その他はもう持ちだしてしまっているし、部屋に戻ってしまえば出て行きにくくなる。
それでもこのまま二人の時間を終わらせるのも惜しくて、最後に食事をする事にした。
美味しいと評判のイタリアンレストラン。
自分の行きつけとかではなく、悪友の一人、フランシスに聞いた店だ。
大変不本意ではあるが、こと食にかけては子役時代から一緒にいた3人の中ではフランシスが一番秀でている。
そのフランシスが薦める店なのだから外れはないはずだ。
実際料理は美味しかった。
ワインも良い物を揃えていると思う。
何も知らないアーサーは笑顔でいつものように可愛らしい顔でパスタを頬張っていたが、ふとフォークを置き、子どものようにまんまるく澄んだ大きな瞳でアントーニョをみつめて言った。
「…アントーニョ、それ…」
「ん?」
「そのクロス、いいな。それ欲しい」
幼児のような口調で言うと、視線はアントーニョの胸元に。
声音はなにげない物だったが、目が雄弁にとても欲しいのだと語っていた。
そう言えばアーサーは今までアントーニョに何かねだった事は一度もない。
というか、何か要求されたら煩わしく思うだろうと思っていた。
実際今までたまにつきあった女達の時はそうだったのだが、どこか悲しげにひたすらにと言った目でそう言うアーサーには、何か胸の奥がきゅんとした。
そして自分からねだってくれたことに、嬉しい…という感情が沸いてくる。
アントーニョは今回の関係は期間限定で時期が来たら完全に0クリアという前提だったので、一緒に居る間、花や菓子は山と贈ったが、残る物を贈った事は一度もなかった。
でも今まさに自分をあらわすような私物をねだられて、(可愛い、そんな悲しそうな顔せんといて…)と言う気分になっている。
アーサーが初めてねだったそれは、別に高価でもなんでもない、ただアントーニョがなんとなく気に入って10代の頃からつけている物なのだが、何故そんなものを欲しがったのか…。
一瞬考えたが、すぐにどうでも良くなった。
可愛い恋人が望んでいるのに拒否するほどの事ではない。
「ええよ」
と言って自分の首から外すとアーサーの首にかけてやった。
アーサーは
「ありがとう…」
と、消え入りそうな微笑みと共に小さく礼を言うと、それから何でもなかったように食事を続ける。
その様子にアントーニョはざわざわと胸がざわめくのを感じたが、自分も何事もなかったようにまたフォークを手に取った。
そうして最後の帰路。
この1年弱いつもそうしていたように、二人で手をつないで遊歩道を歩いて行く。
何事もないように撮影の事、今日のレストランの事など話しながら歩き続け、遠くに二人のマンションが見えて来たその時だ。
アントーニョは足を止めて言った。
「アーティ、先帰っといて。
親分、ちょっとコンビニ寄っていくけど、何か要るもんある?」
アーティ…と呼ぶのもこれが最後だ。
次に会う時は他と同様、アーサーかカークランドだろう。
そんな事を思いながら万感の思いを込めて呼びかけた。
きっとアーサーは何も頼んでは来ないだろう。
いつも必要な物はアントーニョが先回りして用意していたから、そういう習慣がない。
そう確信しつつも内心ドキドキしながら答えを待つと、やはり
「いや、特にない」
と返事が返ってきた。
ああ、これで最後やな…。
と、その返事を聞いてそう思った。
どこか胸の奥にぽっかり穴があいたような感覚に気づかないふりをして、
「ほな、親分行ってくるわ。
危ないから家についたら鍵はちゃんとかけておくんやで」
と、最後にアーサーの細い両肩をポンと軽く押して家の方へ促すと、アントーニョは途中の道を右に曲がり、大通りへ出て、タクシーを拾う。
そうして行き先を聞かれて少し迷った挙句、悪友の一人、ギルベルトの住所を指定する。
今日は1人の家に帰りたくなかった。
自分で決めた事ではあるが、どうしても帰りたくはなかったのだ。
「お前…いい加減帰れば?」
仕事を終えて、ただいま~とドアを開けて第一声にそう返って来て、アントーニョはぷぅ~っと膨れてみせた。
「ギルちゃん冷たいわぁ~。傷心の幼馴染を追いだすんか?」
「追いだすわけじゃねえよ。つか、傷心て自分で望んで出て来たんだろ?」
「…そうやけど……」
それでもちゃんといれてくれるあたりが人の良いギルベルトである。
一昨日の夜、いきなりタクシーで乗り付けたにも関わらず、普通に自宅にあげて居座らせてくれる友人と言うのは早々いない。
幼馴染という意味ではフランシスでも良かったのだが、フランシスはしばしば女性を連れ込んでお楽しみ中という事もあるので、やめておいた。
興が乗れば3人で楽しむと言うのもありだが、今はさすがにそんな気分ではない。
一昨日はとにかく遅かったので寝かせてもらって、翌日からはアントーニョのみで撮るシーンがまだ残っていたので撮影現場へギルベルトの家から駆けつけた。
そしてその日に帰るのもギルベルトの家。
「ええやん。ギルちゃんどうせ1人楽しく住んどるんやから」
と、帰れというわりにはきちんと二人分作ってあるおかずをつまみ食いしようと伸ばしたアントーニョの手をパシッと叩き、ギルベルトは
「手っ!ちゃんと洗ってこいっ!そしたら飯にするから」
と、洗面所を指差した。
こうして手を洗ってキッチンに戻れば、温かい食事が湯気をたてている。
アーサーと住んでいた頃は食事の支度は全て自分がやっていたため、ここ1年ほどなかったシチュエーションだ。
楽は楽なのだが、どこか物足りない。
かといって、じゃあこの悪友のために自分の方が食事を作ってやろうという気にはならないのが困ったものだ。
「ギルちゃん仕事は~?」
「俺様?今医療ドラマだな。天才医師だぜっ」
「え~、こんな厨2の先生とか嫌やわぁ~」
そんなとりとめのない会話を交わしながらの二人の食卓。
それはこのところと変わらない。
もちろんきのおけない幼馴染との食事が不快なわけではない。
なのに、気づけばため息が出ている。
それを耳で拾って、
「いきなり押しかけられて居座られて、ため息つきたいのは俺様の方だぜ」
と、ギルベルトもため息をついた。
それでも…アントーニョが逆の立場だったら間違いなく追いだしているので、食事まで用意して迎えてくれるギルベルトは優しい。
でも一緒に食事をしたいのはギルベルトではないのだ…と思ってしまう。
「…ったくよお、自分で出てきて何で落ち込むんだよ」
ガリガリと頭を掻くギルベルトにうなだれるアントーニョ。
自分でもよくわからない。
もう少しやっていたいと思うところで終わらせて次に行くのが楽しいまま終わるコツのはずだった。
気持ちの切り替えの速さには定評があったし、自信もあった。
なのに今感じるのは解放感やワクワク感より、焦りと悲哀…そしてよくわからないが強い不安感である。
「せやかて…気になるやん。
あの子ちゃんと食うとるかなぁとか、朝起きれるんかなぁとか…」
放っておくと食べへん事あるから…とぼそっと言うと、ギルベルトはめんどくさそうに
「飯食わねえで心配とかならフランにでも振っておくか?
顔そこそこ可愛ければ面倒見に行ってくれると思うぞ」
と肩をすくめた。
その言葉にぞわっと怖気が走った。
あの子の世話を甲斐甲斐しく嬉しそうに焼いているフランシス…そんな図を想像しただけでも吐き気がする。
「とんでもないわっ!!あの子はそんな人間とちゃうんやから、フランの毒牙になんかかけられへんっ!!」
と、そのとたん声を荒げるアントーニョに、ギルベルトは驚いて耳を塞いだ。
「おまっ…フランに失礼だろうがっ。
自分の幼馴染だろ?いったい奴にどういう認識持ってんだよ」
「老若男女構わず手ぇ出す変態っ!」
「あ~…まあ、そういう側面もあるかもだけどよ…」
と、それを否定できない辺りで自分も大概だと思うが、事実は事実だ。
しかしそれとは別に、フランシスはあれで優しく面倒見が良いという一面もあるのだ。
あたりも自分と違って柔らかいし、人見知りらしいアントーニョの元恋人(?)でも普通に接する事が出来るんじゃないかと思って言ったのだが……
(まあ、結局自分以外は嫌なんだよな、こいつ…)
と、ギルベルトは息を吐きだした。
情が深すぎるからこそ、特定の情を持たない。
そうすることで問題なく生きて来たアントーニョだが、今回は失敗したらしい。
色々こじらせている気がする。
「とにかくな、お前は事情分かってるから良いかもしれねえけど、相手はわけわかんねえかもしれねえだろ?
せめてマンションの契約どうなってるのかとか、そのくらいは教えといてやれ。
出ないと相手も出て良いやら出てまずいやらもわかんねえし」
「あ~マンションは居たいだけおってもらってええんやけど…」
「…それ相手には?」
「……言ってへん」
「良いから、それだけでも電話で伝えてやれっ」
「……おん。」
ギルベルト自身は自慢じゃないが恋愛に縁がない。
ファジーな感情論は苦手だ。
だからせめて物理的な方面から接触を持つよう説得してみたが、どうやら成功したらしい。
少し気まずそうに、でもどこか嬉しそうにアントーニョは携帯を取り出した。
言われてみれば確かにマンションの契約によって出て行って良いか出て行かない方が良いのかアーサーには判断がつかないに違いない。
終わりにするにしても伝えておかないとならない事はある。
そのあたりに気が回るのがさすがギルベルトだ。
と、アントーニョは思った。
あれから二日たっている。
もう戻らないと言うのはさすがに察しているとは思うが、どうだろう…。
そうじゃなかったらなんて言う?
色々がクルクル回るがとりあえず声が聞きたい…そんな気持ちが先にたって、アントーニョは電話をかけた。
こうして待つ事、コール音が5回。
普段なら出るはずだ。
なのに、なかなか出ないまま鳴り響くプルルルル…という音。
何故か不安で泣きたくなる。
しかし、出ないのか?と思った頃、ようやく消え入りそうな小さな声が聞こえた。
…あん…と…にょ…?
出てくれた事にホッとするが、その声が随分と弱々しく聞こえて胸がズキンと痛む。
「おん。親分やで。あのな…」
なんと話そうか…と迷いつつ、アントーニョはとりあえずそう話しかけたが、ふいに電話の向こうのゼイゼイという呼吸音に気付いた。
どこか苦しそうなそれに、アントーニョの心臓は嫌な音をたてる。
「ちょ、アーティっ!どないしてん?!
今どこっ?!家かっ?!!」
携帯にしがみつくように言うが、返事がない。
何か様子がおかしいっ!
「アーティっ?!
ちょ、返事したってっ!!」
そう言いながらもいてもたってもいられず、アントーニョは上着を手に
「ギルちゃん、バイク借りるわっ!!」
と、壁のホックにかかったギルベルトのバイクのキーをむしり取った。
「おい、何かあったのかっ?!」
と、そのただならぬ様子にギルベルトも立ち上がるが、アントーニョは返事もせず、もう玄関に走っている。
これは何を言っても説明は返ってこないな、と、そこは割り切って、ギルベルトはただ
「事故んなよっ?!」
と、飛び出していくアントーニョの背中に声をかけた。
ギルベルトの家からバイクならではのショートカットを繰り返して20分。
マンションの駐車場にバイクを止めてエレベータに向かうが、なかなか下りてきそうにないので階段をかけあがった。
そして3階の角部屋。
二日前まで住んでいたマンションの鍵はまだキーケースについている。
ガチャガチャと鍵を開け、アントーニョは中に飛び込んだ。
明りはついている…が、雪でも降りそうな気温だと言うのに暖房をつけていない室内は身震いするほど寒い。
走り続けてやや荒くなったアントーニョの息が白く広がるほどだ。
いつものリビング…。
しかしそこは2日前までいたのと同じ場所だとは思えないほど、寒さと寂しさに溢れていた。
そんなリビングのソファの上にひとりアーサーは居た。
どこかで見た格好で…そう、それは二日前、出かけた時のままの格好だ。
コテン…とソファに横たわっているアーサーの手は力なく下に向かって伸びていて、その先には通話中のままの携帯が転がっている。
息が止まりそうだった。
…アーティ…?……
おそるおそる近づくと顔色をなくしたアーサーが目を閉じている。
顔は青白いのに身体が燃えるように熱い。
呼吸も浅く早く、しかし弱々しい。
アントーニョは悲鳴を上げそうになって何とかこらえた。
でも混乱しすぎて頭が真っ白だ。
「アーティ…アーティっ?!
どないしてんっ、しっかりしっ!!」
半泣きになりながらアーサーを抱え起こしたが、どうして良いかわからない。
何故?!
まさかあの日、あのままここでずっとこうしていたのかっ?!
置いて行かれた子どもかペットのように、ずっとここで待っていたのかっ?!
暖房もついていない寒いリビングのソファの上で、膝を抱えてジッと帰ってこない自分を待っているアーサーの姿を想像すると、胸が張り裂けそうな気がした。
親に置いて行かれた子どものように、大きな目を心細さに潤ませて唇を噛みしめて泣きだすのを堪えていたのだろうか…
酷い事をした…とアントーニョは初めて思った。
それでも自分から追いすがれない、確認の電話一つかけられずに待ち続けたこの子の気持ちを思うと、涙があふれ出た。
可哀想で可哀想で…そして狂おしいほど愛おしい。
アントーニョはアーサーの身体を掻き抱きながら、
「…堪忍……堪忍な…」
と、おそらく聞こえていない耳元で謝罪を繰り返した。
しかし、こうしているのも怖くて、でもどうして良いかわからずギルベルトに電話をかけた。
「ギルちゃん…ギルちゃんどないしよ…アーティが死んでまう……」
『死ぬって…っ…一体何があったんだっ?!』
「わからへんけど…意識ない…身体めちゃ熱くて、息すんのも辛そうやねん…」
『…よくわからねえけど、救急車呼べっ!119なっ。
で、搬送先が決まったら連絡寄越せ。俺様も行ってやるからっ』
それは本当に正しく正確な指示で、まるで神の啓示のようだと思った。
アントーニョはすぐに指示に従って救急車を呼ぶ。
救急車が来るまで10分強、それはアントーニョの人生の中で一番長い10分だった。
もうそこからは何が起こっているのかわからない。
ただ聞かれた事について機械的に答え、担架に乗せられて行くアーサーについて一緒に救急車に乗る。
運ばれた病院は当たり前だが通常の診療は終了していて、ところどころに案内のランプがついただけの暗くシン…とした廊下を進んでいると、なんだか現実世界からどこか恐ろしい所に向かっているような気がしてきた。
もちろん…今、アーサーに何かあるという事以上に恐ろしい事はないのではあるが…。
診療室に着くとアーサーとは引き離され、その代わりに書類を書くように言われる。
患者の名前や年齢、性別。アレルギーの有無や既往症その他もろもろ。
ともすれば涙で視界が滲んで読めなくなりそうだったが、袖口で涙をぬぐいながら一生懸命書いた。
やがて
「おい、トーニョ、大丈夫かっ?!」
と、そう時間もたたないうちに駈けつけて来たギルベルトになんだかホッとしながらも
「わからへん…でもギルちゃん、子どもやペット放置したらあかん言う事だけはわかったわ」
と、アントーニョはしゃくりをあげた。
「子どもやペットかよ…」
と、ギルベルトは呆れたように言いながらも、ちらりと診療室の治療中のランプに視線を移す。
「まあ…事務的な事が必要だったら俺様が全部やってやるから、お前は好きなだけその子の側にいろよ」
ポンと肩を軽く叩きながら自分の隣に座るギルベルトに礼を言う余裕もなく、しかしアントーニョは珍しくこの幼馴染の腐れ縁に心から感謝した。
結論から言うと、アーサーは肺炎と脱水症状を併発していた。
あの寒い部屋でずっと飲まず食わずでいたためらしい。
ギルベルトは原因と結果を聞いて、なるほどアントーニョが子どもかペットと言った言葉に納得出来る気がした。
当事者の青年は幼くは見えたが実年齢は23歳で、その気になれば外に何か買いに行く事もできたし、それ以前に水道をひねれば水だって出る。
暖房のリモコンだってリビングのテーブルの上に置いてあったそうだから、部屋を暖めるのだって簡単だ。
そんな状況でこうなるのがおかしい。
そもそも撮影に入る前は1人で暮らしていたはずだ。
人は食べなくてもある程度は生きていけるが水分は3日も全く取らなければかなり死に近づく。
それを見越しての自殺志願?
いや、餓死は自殺の中でも辛い。
死にたいならそれこそ足があるのだから、もっと楽な方法を取れただろう。
本当にギルベルトにしたら理解不能な事態なのだが、隣でアントーニョが…『こうなる事わからなかった親分があかんわ…ほんま想像出来た事やん。この子は親分が色々やってやらなあかんかったのに……』などと泣きながらブツブツとつぶやいているのを聞いて、ああ、こいつが原因か…と、大きく肩を落とした。
本当に出来ない、やるという発想が浮かばなかったのか、それをやってはいけないと思ったのか……
どちらかは定かではないが、もしかしたら一緒に住んでいる間、アントーニョが全て自分がやることを強要していたのかもしれない。
結果、物理的には出来ても精神的にできなくなっていた可能性は多分にある。
どちらにしても、アントーニョだけじゃなく、相手の方も色々こじらせていそうではあるな…と、ギルベルトは深いため息をついた。
アーサーが目を覚ました時にまず目に入ったのは、見覚えのない白い天井だった。
見た事もない知らない部屋。
身体がだるい。
腕にはテープが張ってあって、そこから伸びた管を辿っていけば上の方に点滴の袋が見える。
と言う事はテープの下では点滴の針が腕に刺さっているのだろう。
体調的には最悪だ。
なのに精神的には少し気分が良いのは手先に感じるぬくもりのせいだろう。
この1年近くずっと感じていたぬくもりがなくなってからどのくらいの時間がたっているのだろうか…。
自分でもどうやって過ごしていたのか記憶があまり定かではない。
戻って来ない…それはわかっているのに、戻ってきた時に暖房をつけようとしてすでについていた…と、そんな事を思われるのが何故か嫌で、寒い中で膝を抱えて待っていた。
ソファの上でうつらうつらしていると鳴る携帯。
なんの疑いもなく、アントーニョからだと思った。
――ちょお色々買っとって遅くなってもうたわ。すぐ戻るな。
そんな言葉が聞こえてくるはず…と、ありえない事を思って、アントーニョ?と名前を呼び掛けたのだが、寒い部屋でずっといたせいでかじかんでしまったのだろうか…力の入らない手から携帯が落ちた。
ダメだ…出ないと……アントーニョが帰ってこなくなる……
と、伸ばした手は空を切り、力の入らない身体がコテンとソファに倒れ込んだ。
遠く携帯からもれてくる声は確かにアントーニョのもので、そちらに手を伸ばしたつもりだったのだが、いつのまにか意識が途切れていたらしい。
きづいたらここにいて、アントーニョの体温を感じていた。
「アーティ…親分やで。わかるか?」
何故か涙声で問いかけて来るアントーニョに頷くと、アントーニョは、『堪忍なっ』と、アーサーの手を引きよせて額に押しあてた。
何故謝られているのか正直わからない。
体調を崩して迷惑をかけたのは自分の方だ。
でもずいぶんと長く触れていなかったその体温があまりに心地よかったので、アーサーは軽く目を閉じてそのぬくもりを甘受した。
しかしそんな幸せな空気はすぐ、ノックと共に入ってきた男の声で破られる。
「じゃ、入院手続きとか事務所に連絡とか全部済ませたからな。
俺様はいったん家にお前の着替えとか取りに行って、それこっちに持ってきたら仕事行くぞ。」
淡々と言うその男はテレビでよく見た顔だ。
ギルベルト・バイルシュミット。
アントーニョが子役時代からユニットを組んでいた仲間で、ファンからは軍曹とか師匠とか呼ばれているクール系のイケメン俳優だ。
確か今、医療系のドラマで天才外科医を演じていて、アントーニョ同様、かなりの売れっ子である。
細身だがしっかり筋肉がついているのがわかる引きしまった体躯。
整い過ぎるくらい整った顔立ち。
そして…おそらく知られているキャラ同様、性格も色々しっかりしているのだろう。
そのギルベルトの家にアントーニョの着替えがある……それでアーサーはストン…と、全てが分かった気がした。
ああ…そうだったのか……
あの日、自分と恋人を演じる必要がなくなったアントーニョはギルベルトの元へ戻っていったのだ……
きっと幼い頃から支え合っているうちに関係が出来上がったのだろう…。
相手も自分と違って売れっ子でお荷物でもなくて対等で…そして…そんな人間だからこそ、一時的にアントーニョが他の人間と一緒に居ても全く気を揉む事もなく許容できたのだのだろう。
…もともと…このぬくもりは自分の物ではなく、この人から一時的に借りていたものだったんだ……
そう思うと体中からす~っと力が抜けて行く気がした。
返さなければ…
せっかく戻ってきたのに自分がこんな風にこれ見よがしに体調を崩したせいでまた恋人を差し出さなければいけなくなったのに、嫌な顔一つしないどころか自分の入院関係の諸々までしてくれたこの人に……
今度こそ見苦しい様子は見せまい。
アーサーは気力を振り絞ってアントーニョの手を外し、半身を起こそうと身体に力を入れたが、どうにも力が入らない。
それを見てアントーニョが
「あかんっ!まだ寝てなあかんよっ!!
自分まだ危ない状態脱したばかりなんやでっ!!」
と悲鳴のような声をあげた。
「ちょ、おまっ、無理すんなっ!」
と、ギルベルトも慌てて部屋に入って駆け寄ってくる。
さきほどまで嬉しかった気遣われているという事が、すごく恥ずかしくなった。
自分はアントーニョの本当の恋人に比べてみっともないくらい子どもだと思う。
「…っ…ごめっ…なさっ……迷惑かけっ……」
ダメだ!と思うのに緩いと自覚のある涙腺が決壊した。
「…も…戻っていっ…。平気だからっ……。…おれっ…1人で大丈夫だかっ…」
アントーニョに力づくで押さえつけるようにベッドに横たわらされて、それでもしゃくりをあげながら訴えると、アントーニョが
「平気やないっ!!ぜんっぜん平気やないっ!!
アーティが平気でも親分が平気やないからっ!!」
と大きく首を横に振る。
「アーティが死にそうやった時っこのまま死んでもうたら親分も死のうかと思うとったからっ!
というか、今かて平気なわけやないんやでっ?!悪化したら死ぬでっ?!そうしたら親分も死ぬからなっ!!!」
ボロボロと泣きながらほとんど絶叫するように言われて、驚きのあまり涙が引っ込んだ。
いやいや、ないない。
「それは…ギルベルトさんに失礼だろ?」
と思わず思ったそのままが口をついて出た。
「「へ???」」
と、今度は二人の方がぽかんと呆けた。
「…俺様が?なんだって??」
と、先に我に返ったのはギルベルトの方で、自分で自分を指差しながら聞き返して来る。
「いや…だから…仕事とはいっても長い間恋人をお借りしてて……」
「「はあぁぁ?!!!!」」
今度こそ二人は同時に叫んだ。
「ちょ、ちょっと待ってやっ!!!なんでそう言う事になっとるんっ?!!!」
「や~め~ろ~~!!!俺様は異性愛者だし、そもそも同性愛者だったとしてもこいつだけはありえねえっ!!!」
二人とも思い切り嫌そうに叫ぶので、アーサーの方がびっくりだ。
「え?…でも…だって……」
「ちょおぉぉ~~~!!
もう、なんで可愛え恋人に他の奴が本物言われなあかんの?
親分もうめっちゃショックや~~」
「えと…でも…俺とは仕事で…役作りで……」
「そうやなっ!役作りで関係始まったんやんなっ!
でも恋人関係になったんやんっ。
それから別れたわけちゃうやんっ。
親分別れてへんでっ!」
畳みかけられてアーサーは目をぱちくりさせるばかりだ。
それでも冷たく感じていた身体に抜け出ていってしまっていた温かい熱が戻ってきた気がした。
一方で少し離れたところではギルベルトも
(こいつ…期間限定の付き合いで、期限切って、二日前にその期間終了とか言ってなかったか?)
と、内心呆れ果てている。
「確かに…これからちょっとの間は恋人亡くして傷心中の演技せなあかんから、ぜぇ~~ったいにそんな気にならへん、1人楽しすぎる生活しとるギルちゃんの所に転がり込んだのは事実やけど…親分別れた覚えはないし、別れる気ぃもあらへんで」
――仕事で頭いっぱいで外泊伝え忘れとってん。堪忍な?
と、アーサーの手を両手で握り締めて真剣な表情で顔を覗き込むその深いグリーンの目は澄みきっていて、そこに偽りがあるようには思えない。
――俺の方こそ…まだ仕事が残ってるのに迷惑かけてごめん……
と、アントーニョのものより淡い色合いの大きな目を潤ませるアーサー。
その二人の様子は麗しく、非常に絵になるわけだが……
(本当に…ラテン男って奴は……)
と、振り回されるだけ振り回されているギルベルトは大きくため息をつく。
アントーニョの脳内ではもう、ついさっきまで自分で言っていた期間限定とか期間終了とか言う言葉は遠く宇宙のかなた。
本当に今言っているように役作りのために一時的に離れていたという風に変換されているのだろう。
切り替えが早いと言うより、都合の悪い事は綺麗に書き換えられている事間違いなしだ。
そのあたり、軽い性格のように見えて実は生真面目なゲルマン民族そのままのギルベルトにはとても真似できないところである。
そして…おそらくアントーニョはアーサーが退院したら一緒にマンションへ戻るだろうし、それまでにアントーニョがギルベルトの家に持ち込んだ荷物を戻しておかねばならない。
さらに…アントーニョの脳内ではアーサーはもう恋人(仮)ではなく、自分がずっと保護しなければならない大切な愛し子(それが子どもだかペットだか恋人だかはわからないが)に認定されたのだろうから、双方の事務所の方にもある程度報告し、協力を得なければならないだろう。
一旦受けてしまえば仕事に対して非常に真摯だが、受ける受けないについては我儘で気難しいと評判のアントーニョのことだ。
下手をすれば自分の目の届かない所でアーサーが活動するくらいなら、それに付きそうために自分が仕事をしないくらいは言いかねない。
そうしたら絶対に自分の方になんとかしろと社長から厳命が下るのは目に見えている。
フランシスが少々女性遊び男性遊びが過ぎた時も、アントーニョが共演者を選びすぎて揉めた時も、いつだってそうだった。
ギルベルト自身が自分の仕事を真面目に地道にコツコツこなし続けていても、必ず悪友二人のとばっちりが自分に来る。
もうこれはそういう巡り合わせなのだろう。
どうせ来る面倒事ならば、早い時点で対応を始めた方が良い。
そのあたりはもう諦めるしかない。
そう割り切ってギルベルトは感動的なやりとりをしている二人を放置で廊下に出ると、
「あ~社長?俺だけど……」
と、とりあえず先にアントーニョの方をなんとかしようと、事務所に電話をかけて交渉を始めた。
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