幸福
二人の生活が始まったのは肌寒さが徐々に薄れ、あちこちで新しい命が芽吹く春先の事だった。
アントーニョが用意したマンションは川沿いに伸びる遊歩道を見下ろす住宅街の一角にあり、その遊歩道に沿ってたくさんの桜の木が植えられていた。
季節はおりしも桜の木が蕾をつける頃だったので、
『桜咲いたら遊歩道一緒に散歩しような』
と、越したばかりのマンションのベランダから外を見下ろして、アントーニョは楽しげに笑う。
なにしろイケメン俳優だ。
まだ片付けが終わってない、ダンボールが積まれてすらいる部屋の窓際で、来る途中に買ったコンビニのコーヒーを片手にそんな事を言うだけでも、驚くほど絵になる。
ドラマのワンシーンみたいだ…と、アーサーはテレビのディスプレイ越しに見てでもいるような気分になった。
とても現実とは思えない。
実際それを口にしてみると、アントーニョは少し驚いたように目を丸くして、それからまた微笑む。
そして
『親分も同じ事思うとったわ。
そうやって開いた窓から入ってくる風に揺れるレースのカーテンをバックにしとると、なんや映画にでも出て来る精霊みたいや。
今にも消えてまいそうで怖いわ』
と言って、アーサーの手首を掴んで引き寄せた。
首元に埋まった鼻先に香るムスクの香り…。
――幸せにしたるから、消えんとってな?
と、笑いを含んだ甘い声を耳元に落とされて、クラクラした。
幼い頃に親に捨てられて孤児院で過ごしたアーサーは恋人がいた事もなく、こんなに近くに人の体温を感じたのは初めてで、逞しい腕で自分を抱きしめてくる相手にどう反応して良いかわからない。
だから抱きしめ返す事も出来ずに硬直していると、アントーニョはちょっと悲しそうな表情で
『こういうの、嫌?』
と聞いてくる。
嫌か…と言われて初めてアーサーは今の状況について考えてみた。
不快か?と言われれば不快ではないと思う。
今がまだ肌寒さの残る季節だと言う事もあるだろうが、アントーニョの体温は存外に心地よい。
ただ、孤独に生きてきすぎたせいでアーサー自身がその心地よさを享受する事に慣れないだけだ。
「嫌じゃない…」
と、とりあえず一言。
それからどこまでの事をどう伝えようか少し悩む。
相手に不快な思い、悲しい思いをさせたいわけではないので、それが伝わる程度には…と思いつつも、自分の境遇などつらつら話されても迷惑だろう…。
むぅ~っと眉を寄せて、
「説明した方がいいのかもしれないけど、どこまで話せばいいのかわからないんだ」
と、正直に言うと、アントーニョは
「ゆっくりでええよ?
アーティが思うた事、全部教えたって?」
と、大きな手でアーサーの髪を優しく梳きながら言った。
それはまるで大人が子どもをうながすようなとても優しい言い方で、この瞬間にアーサーはアントーニョに半分くらいは心を預けてしまっていたのかもしれない…と、のちに思う。
こんな風に、恋人の役作り…と言いつつ、それはまるで家族…親や兄といるような、穏やかで優しい関係から始まったのだった。
――おはようさん、朝やで~
チュッと鼻先にキスが降ってくる。
二人で暮らし始めてからずっと、アーサーの朝はその何故か鼻先に落とされるキスとアントーニョのおはようの言葉で始まっていた。
別にアーサーだって朝に弱いわけではないのだが、アントーニョの朝は本当に早くて、いつも美味しい朝食を作ってからアーサーを起こしに来てくれる。
『初めて会うてからずっと思っとったんやけど、アーティ、ほんま痩せすぎや。
親分が美味いモンいっぱい作って食べさせたるからな』
初日にそう言って以来、食事の用意はいつもアントーニョだ。
今をときめく大スターにそんな事をさせられないと抵抗を試みてはみたのだが、
『恋人には何でもやってやりたい人間やねん』
とこちらも断固として主張するアントーニョに結局は押し切られてそうなった。
実際、食事の支度だけじゃなく、車の運転も買い物の時の荷物持ちも、ドアの開け閉めさえもいつのまにかやられている。
実のところ、今まで誰かとそこまで親しくした事のないアーサーは、どこまでが恋人として普通なのかどうかの判断が出来ない。
なので、思いついたはしからアーサーの世話を焼こうとするアントーニョにストップをかけるのは難しかった。
そんな生活の中で、今に食事の支度だけじゃなく食べさせるところまでされそうだ…と言うと、『ええよ?明日からア~ンしたろか?』と意外に真剣な顔で返されたので、それは慌てて固辞しておいた。
そんなアントーニョの態度は二人きりの時だけではなく撮影の時も変わらない。
出番を待っている間はやや開いて座っている自分の足の間にアーサーを座らせ、後ろから抱きかかえるようにしている体勢が定番で、しょっちゅう頬や耳元、髪などあちこちにキスの雨を降らせているし、外での撮影の時に小雨でも降ってこよう日には、ぽつりと一滴触れた瞬間にもう、自分の上着を脱いでアーサーに頭からかぶせたりする。
アーサーの方はと言えば人生の中でこんなに誰かに大切に扱われたのは初めてで、どう返していいかわからずオロオロするばかりなのだが、アントーニョはそんなアーサーに『人慣れない感じも可愛えわぁ~』と相好を崩して言うと、ぎゅうぎゅうと抱きしめるのだ。
それでも1カ月、2カ月と一緒に過ごすうちに、嫌でもそんな状態に慣れて来る。
いつも横か後ろにあるアントーニョの気配と体温。
ドアであるとか車であるとか、それまでは当たり前に開け、気をつけていたものにも気を配らなくても、必要な事は当たり前になされるし、気をつけなくてはいけないものは当たり前に排除される。
子役時代から売れっ子の座を走り続け、現在30歳という年齢からするとかなりのベテラン。
アントーニョは実力派の大物俳優の名を欲しいままにしているのに、プライベートでも飽くまで知られているキャラの通り、マメで優しい男だった。
こんな風に愛されたなら、なるほど大抵の女は夢中になるであろうとアーサーは思ったが、たまに浮名を流す事はあっても特定の相手がいるというのも聞いた事がなく、未だ独身。
ルール違反かも…と思いつつもある時ふと特定の…もっと言えば結婚や同棲を考えてしまうような相手はいなかったのか?と尋ねてみると、少しからかうような悪戯っぽい口調で
『アーティは恋人の過去が気になるタイプなんやね』
と額にキス。
なんとなくごまかされた感じで、聞いてはいけない事を聞いてしまったような気がして「ごめん…」としょぼんとうなだれると、アーサーと違って相手の気持ちを察するのが上手いのだろう。
アントーニョは小さく笑って首を横に振った。
『ああ、単に可愛えなぁと思うてからかいたくなっただけで、別に言いたないわけやないねん。ごめんな。』
と、アーサーの頭を撫でる。
新米とベテラン、7歳の歳の差ということもあるのだろうか。
どうやら愛玩という意味合いのあるらしい鼻先のキスや、こうやって頭を撫でたりする諸々で、アントーニョからの愛情というのは、たぶんに親愛がこもっているような気がした。
相手は大人で自分の子どもな部分を許容されている…そんな感覚は、実際に本当に子どもだった頃ですら経験できなかった事なので、心地よくもホッとする。
アントーニョの足の間に座ると言ういつもの体勢でアーサーが力を抜いてアントーニョに背を預けると、アントーニョは後ろから回した腕の力を少しだけ強めた。
『そうやなぁ…。
親分、同業者はあかんねん。
芸能人て大勢のファンに愛情をばら撒く仕事やろ?
それがあかん。
ほんまに惚れてもうたら、めちゃ嫉妬する。
たぶんそれを隠しきれへんから、相手が嫌になると思うわ。
かといって一般人はなぁ…親分自身がそういう仕事やさかいな。
相手には自分だけ見てろ言うて自分はファンの方向いとったら、それはそれで嫌やろ?
どっちにしろ幸せにできひん気ぃするから、特定の相手は難しいかもなぁ…』
――せやから1人やってんけど…
と頭の後ろで困ったように笑う声がした。
そしてその後、
『今、アーティがおってめっちゃ幸せやぁ…
可愛いて可愛いてしゃあない。
もうなんでもしたりたい気分になるわ』
と、またぎゅうぎゅうと抱きしめられる。
それは胸の奥がぽっぽっと温かくなるような感覚で、アーサーは熱さに顔を赤くしながら、ただその手を掴んでぎゅうっと握り締めた。
それがアーサーのめいっぱいだったが、アントーニョには伝わっているようだ。
頭の後ろから、ほぅっと溢れかえってしまいきれなくなった幸せが漏れ出たようなため息が聞こえて来た。
初めてのキスは高原の教会だった。
仮の恋人として生活を初めて5カ月くらい過ぎた頃で、それは成人を過ぎた恋人同士としては遅いほうなんじゃないかと、さすがにアーサーでもわかる。
夏の終わりに取れた休暇に行った高原のホテル。
当然それも二人一緒で、恋人同士ということになっているので部屋は一部屋。
しかもダブルベッドと聞いて硬直するアーサーに、アントーニョはおかしそうに噴き出すと、
『大丈夫っ。別に変な事はせえへんよ。
ダブル言うてもキングサイズくらいの大きさのベッドの部屋予約しとるから、大の男3人くらい余裕で寝れるスペースあるしな』
と、くしゃくしゃとアーサーの頭を撫でまわすので、アーサーは変な反応をした自分の方が恥ずかしくなった。
アントーニョの運転する車で東京から3時間。
小さな可愛いプティホテルで、実は秘かに可愛らしいものが大好きなアーサーがそれをカミングアウトしたら、『やっぱりな。そうやと思うてここにしてん』とアントーニョはニコニコと笑った。
アントーニョいわく、恋人と旅行に行くなら相手の好みを全力で調べ考えるとのことで、その結果がこれだとすれば、かなりすごいとアーサーは思う。
普通成人した男がこんな少女趣味の持ち主だとは思わないだろう。
そんな風にまあいつものことではあるが全てはアントーニョの手の上で踊らされている感のある旅行ではあったが、これも単なる娯楽ではなかったらしい。
着いたその日、ホテルで荷ほどきをする間もなく、アントーニョに手を引かれて連れて行かれたのは、ホテルのすぐ横にある小さな教会だった。
その小さな可愛らしい真っ白な教会は本来はウェディングのために併設されているらしい。
その中に当たり前に入っていくアントーニョに引っ張られるように中に入ると祭壇へと続く紅い絨毯の左右一面に敷き詰められた真っ白な薔薇。
『これな、形だけやけど…』
と、入口近くの椅子に置かれていた繊細なレースで出来たマリアベールをふわりとかぶせられ、そっと手を取られて祭壇の前へと促される。
もう現実味がなさすぎて、アーサーは何が起こっているのかもわからない状態でされるがままになっていたが、祭壇の前についてアントーニョの綺麗な顔が近づいてきて『アーティ、初めてやんな?』と言われたところで、初めて気づいた。
もしかして…そろそろ撮影でキスシーンが出て来るので、そのためか?
そのためだけにこんな事まで??
驚いて言うと、エメラルド色の瞳が優しく笑みの形を描いた。
『やって…初めてやったら衆人の目の中でなんて悲しいやろ?』
それはアーサーが今まで聞いた事のある中で一番優しい声だった。
光の中でふわふわと天使の白い羽に撫でられているような、そんな気分になる。
『目ぇ…瞑ったってな』
と言われて何が起きるのかはわかっていたが、不安も嫌悪感も悲しさも全くなかった。
一人ぼっちだったはずの自分が確かに誰かに愛されている…そんな喜びでぽつりと一筋涙があふれた。
その日はそれからホテルに帰り、ゆっくりと過ごす。
夜は初めて同じベッドで一緒に寝た。
『おやすみ、良い夢を見ぃや?』
と、今日初めてしたばかりの唇へのキスと共に囁かれる言葉。
抱き枕のように抱え込まれ、アントーニョの腕の中でアントーニョの匂いに包まれて眠る。
翌日からは今まで鼻先だったり額だったりしていた口づけが唇に施され、夜も少しずつベッドシーンのために口づけながら上半身を触れあう練習をした。
もちろんそれ以上の事はない。
それでもそれもやはり経験の全くないアーサーを気遣うようにゆっくり優しく進められて行くので、不快感や不安感は全くなく、まさに恋人の愛情表現のようだった。
期間にして4泊5日。
その旅行は本当に美しくも優しい、切り取ってずっと眺めていたいような時間であった。
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