跡取りを産まないスペイン王女と離婚し、若い侍女をその後釜に据えたのだ。
その影響はもはやスペイン帝国との関係のみでは終わらなかった。
離婚を許していないカトリックからの許可がおりないため、イングランド王はなんとカトリックを離脱。
イングランド国教会を作って、国王至上法によって、イングランド国内においては、国王こそが政治的・宗教的に至高の存在であると位置づけた。
これにより当然イングランドとスペイン帝国の仲は悪化したが、スペインの王女キャサリンは王妃の座からは追われたものの現王の兄、故王太子アーサーの未亡人として遇され、現王との子である娘メアリーも庶子に身分を落とされたものの、それぞれ命は保証されていたため、アントーニョとかわされた裏取引の元、スペインから兵が送られてくる事はなかった。
そのかわり二人の無事を確認する使者として、アントーニョ自身がしばしばイングランドに足を運ぶようになった。
「長い間にはこういう事もある。国ちゅうもんは皆、敵になったり味方になったりや。まだ戦争起きてへんだけマシやで?何かのきっかけですぐまた仲良うなるから、気にせんとき」
アーサーの自室に二人きりになり、いつものように自国の王の所業の謝罪から入るアーサーにアントーニョはそう声をかける。
正直、アントーニョはそれを事前に知っていて止めないどころか裏取引を持ちかけている身なので、今回の事は全くと言っていいほど気にしていない。
それよりむしろ、上司の離婚が決まった前後から会う度やつれていくアーサーの身の方が心配だった。
今回の事でスペイン帝国との関係だけでなく、カトリックにおける神の代行者である教皇との関係を切った事で、アーサーは拠り所をなくして憔悴しているようだった。
公式の場では平静を保っているものの、部屋に戻ると沈み込む。
「…神様にもう祈れない…。神様に逆らって…善良な母娘を苦しめて……もうきっと救いはこない……。」
アーサーは疲れ切った身体をベッドに仰向けに横たわらせて、涙の溢れる顔を両手で蔽い隠した。
自分がもうとっくに捨ててしまったモノにまだ恐れを抱き、自国のモノですらない人間のために心を痛めて涙するその姿は、美しいが同時にひどく痛々しい。
「大丈夫やで…」
ベッドの端に腰をかけてアントーニョはアーサーの短い髪に指を滑らせる。
「国がどうだろうと、自分はこんなに白いまんまなんやから…。神様が見捨てるはずあらへんわ。」
「俺は…白くなんてない…。心も身体も汚れきった俺が体現なんてしてるから…国民が神から離れて行ったのかもしれない…」
アーサーの言葉にアントーニョは少し苦しげに眉を寄せた。
天使の白い翼をむしり取り、神から引き離したのは他でもない、自分だ。
本当は天使は神の御許で仕えているのが一番幸せだったかもしれない。
なのに…どうしても欲しくて引き離した。
その報いを受けるべきは自分であって、この子であってはならないはずだ。
「もし…汚れてる言うなら、それは穢した俺の罪や。アーサーは何の咎もあらへん。
罪も罰も全部俺が受けるから…泣かんでもええ。苦しまんでもええんや。」
そう言ってそのまま柔らかい髪をなでているうち、アーサーは泣き疲れて眠りに落ちた。
カトリックから離脱してなお捨てきれない信仰の証の十字架が、シャツの隙間からのぞく。
イングランド国内では堂々と身につける事のできなくなってしまったそれを、こっそりとシャツの下に隠して神の許しを乞う天使を、アントーニョはひどく哀れに思った。
それから約20年。
アントーニョは時間をみつけてはイングランドに通い詰めた。
表向きは自国の血を引く悲運の王女のため。しかしそれはあくまで表向きの理由で合った事はいうまでもない。
日に日にやつれて行くアーサーに、次に渡英した時にはもう消えてしまっているのではないだろうかと、恐怖心がわく。
300年前のあの日…フランシスのアーサーに対する扱いに腹を立て、自分ならもっと優しく幸せにしてやるのに、と思ったのだが、今の状況を見ていると、あの頃の方がまだアーサーは幸せだったのではないのか…とさえ思えてくる。
自分と出会わなかった方がアーサーは幸せだったのでは?
思いたくはないが、そう思えてしかたがないほど、日々アーサーはやつれていった。
しかしやがて転機が訪れる。
ヘンリー8世がなくなり、さらにその跡を継いだヘンリー8世の子でスペインの血を引く王女メアリーの異母弟エドワード6世が死去すると、国民の圧倒的支持を受けてメアリーが王位につく事になった。
さらに1年後、メアリー女王はその配偶者としてスペインの王太子フェリペ、のちのフェリペ2世を選んだ。
こうしてイングランドとスペインの関係は再び蜜月を迎え、また、メアリー女王は父王の宗教改革を覆し、ローマ教皇を中心とするカトリックに復帰した。
「ヘンリーの時はすまなかった。今度こそ良好な関係が結べると嬉しい。」
その全てがなされた時のアーサーはとてもホッとしたような、安らいだ表情をしていた。
その胸元には堂々と肌身離さずつけていた十字架が揺れている。
「これ…出せるようになったんやな」
アントーニョが言うと、アーサーは嬉しそうにうなづいた。
「そうだ、もうフェリペ殿下は女王陛下に聞いていると思うけど、お前に報告する事があるんだ。今回わざわざ来てもらったのはそれが理由なんだけど…」
嬉しさを隠しきれないようなアーサーの表情に、アントーニョはそれだけで幸せな気分になる。
「神はたぶんイングランドをお許しになられたんだと思う。」
自室でくつろいだ様子でアントーニョを見上げてくるアーサーに
「もともと怒っておられんかったと思うけどな」
と、アントーニョは笑みを返す。
だといいんだけどな…と少しはにかんだ笑みでそう言うアーサーの額にアントーニョは軽くキスを落とした。
「で?お姫さんはなんでそんなご機嫌さんなん?」
そのまま瞼や鼻、頬と顔じゅうについばむような口づけを落としながら聞くと、男に姫とか言ってんじゃねえよ、と、悪態をつきながらも、アーサーは笑顔でアントーニョの首に腕をまわして抱きついてきた。
「メアリー様に…お子ができたんだ」
「ほんま?」
驚くアントーニョに、アーサーは
「ああ。」
と笑顔でうなづく。
正直半分期待はしていなかった。子供を産むには結婚した時点でメアリー女王は少々年を取り過ぎていた。
が、スペインの血を色濃く継ぐイングランドの世継ぎができると言う事は、今後の両国の関係を思うと非常に喜ばしい事だ。
少なくとも当分の間は良好な関係が続くだろう。
敵対せずにすむ…同盟国として側にいる事ができる。
それはなんて素晴らしい事だろうか。
「無事お生まれになるといいな。殿下でも妃殿下でもいい。今回はどちらでも文句を言う奴はいないだろうし…また抱かせてもらえるかな。ああ…可愛いだろうな」
「自分の方がよっぽどかわええけどな。俺は妃殿下がええなぁ。またうちの国から婿取ったらええわ。そしたら俺んとこかて自分の国の子ぉやから堂々と守ったれるし。」
アントーニョはそこで少し身体を放して、すっかり顔色の良くなったアーサーの顔をのぞきこむ。
久々に見るほわほわした笑み。
そう…今後もそんな風に続いていければ…この笑みが守れるのだ。
300年前のあの日から、望みはただそれだけだ。
しかしそんな幸せな未来の絵図は数カ月も続かなかった。
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