悲恋 - Amor trágico 前編_1

スペインの王女がイングランドの国に嫁いでくる…
その知らせを聞いてイングランドの国の化身、アーサーの心はひどく揺れた。

脳裏に浮かぶのは精悍な印象の浅黒い肌の男。
スペインの化身…アントーニョ。
幼い日、アーサーが初めて恋をした相手だった…。


300年ほど前…初めて会ったのはイングランドがフランスに占領されていた時代。

当時はまだアカ抜けない田舎のイングランドの地から連れてこられたフランスの城は優美で美しかったし、その主であるフランスの化身、フランシスも熟練した職人が完璧に美しく作ったヴィスクドールのように、とても美しい青年だった。
しかし、そこでアーサー待っていたのは召使としての日々である。

フランシスにこき使われて、時には鞭で打たれたりするのは、同じく国の化身としては甚だ情けない状態ではあったが、自国にいて実兄に弓矢を射かけられる事に比べれば、安全で穏やかな時代だったのかもしれない。

自尊心…などというものに構っていられるほど恵まれた人生ではなかった。
とにかくここにいれば殺されない。大怪我をさせられる事もない。
ただそれだけの事で幸せを感じていた。

多くを望む等考えた事もない。
幸せになりたいなどと考えた事もない。
なるべく不幸になりたくない…本当にただそれだけだったのだ。

そんな日々を送っていたある日、フランシスに今日は客が来るから準備していろと命じられた。
当時ヨーロッパの中心的存在であったフランスに客がくるのは珍しい事ではなかったし、その準備に駆り出される事もまた珍しい事ではなかったが、その日は色々用事が重なって、客の対応に出るのが遅れてしまった。

フランシスに呼ばれて慌ててかけ出していくと、そこにいたのは珍しく若い男だった。
それまで見た事のない浅黒い肌。黒い髪を無造作に後ろで束ねている。
フランシスの人形のような美しさと違って、野生味を帯びた男っぽい…例えるなら黒豹のようなしなやかな美しさに一瞬見惚れかけて、アーサーは何故か恥ずかしさを感じて俯いた。

もう少し身なりを整えてくれば良かった…などと初めて思ったが、よくよく考えてみれば召使として連れて来られているのだから整えようがない。
みすぼらしい自分の姿を見て、あの綺麗な形の黒い眉をひそめられるのを見たくなかった。

顔を上げる事もできず思わずきゅっと服の裾をつかんで
「こいつ、俺の召使のイングランドな。十数年前くらいに手に入れたんだけど…」
と、フランシスの言葉を聞いていたアーサーは、次に自分に向けられた
「お前な、遅いんだよっ。今日客来るから待機してろって言っただろっ!」
という言葉に泣きたくなった。

鞭で打たれるより何より、自分が客の接待の支度もできないノロマだと目の前の青年にバレてしまった心の痛みの方が、数倍つらい。

しかしぎゅぅっと固く目をつむって待っていた鞭の痛みは何故か襲ってこなかった。
代わりにふってきたのは
「自分なにしとるん!!」
という、怒ったような声。

おそるおそる目を開けると、青年が鞭を振り上げているフランシスの手を掴んでいた。
何故?と当のアーサーも驚いた。

青年とは初対面で…自分はこんなみすぼらしく気も利かない召使で…青年はおそらくフランシスと対等に付き合えるくらいの身分で……なのに荷物を運ぼうとしたアーサーに
「自分で運ぶから…。自分で運ぶからそんなんせんでええよ。」
と笑顔を向けてくれた。

それは生まれて初めて向けられた優しく温かい…太陽のような笑顔で…
その瞬間…アーサーは身分違いの想いを抱いたのだ…。

その後フランシスに命じられてお茶を運ぶと、一人では寂しいから一緒に飲まないかと言われて、アーサーは舞い上がった。
急いで自分のカップを持って戻って、そのまま一緒にお茶をした時に、彼がスペインの国の化身、アントーニョだと知った。

アントーニョは優しかった。
甘いものが苦手だから良かったら食べてくれと言われてケーキをもらったが、のちにフランシスの会話から彼は甘いものがとても好きだと知った。
彼はこんなみすぼらしく愛想もない自分のために気を使ってくれたのだとわかると、ますます彼に対する想いは募っていった。

もちろん身分違いはわかっているし、どうこうなりたいというわけでもない。
ただ優しく幸せな思い出として心の中にしまっておきたいだけだった。

フランシスがいない時に部屋に呼ばれてただお茶を飲む…それだけの事だが、まるで夢のように幸せだった。

「自分、ほんま可愛ええな。」
アーサーより少し濃い緑の瞳を細めてアントーニョが笑う。
それが社交辞令だと言う事はわかっていたが、嬉しかった。
誰にも言われた事のない言葉…それを秘かに想いを寄せる相手に言ってもらえるのだ。
嬉しくないわけはない。

しかし幸せな時間というものは長く続くモノではないのが常だ。
フランシスに見つかった。

別に一緒にお茶をしていただけなのだが、客と召使が同席するなどという事態がそもそも許せなかったのだろう。
アントーニョはかばってくれたが、フランシスが聞かず、フランシスの部屋へと引きずられて行った。

その後の事は…思い出したくない。
ただ忘れられないのは、全てを終えた時、フランシスがシーツにくるまったまま放心しているアーサーの所へアントーニョを連れてきた事だ…。

驚いた目をしていた。
当たり前だ。ただの折檻ではない。
精液がこびりついた体の大部分はシーツに隠れていたが、あちこちにフランシスにつけられた赤い痕はおそらく目に入っていたはずだ。
アントーニョはその後すぐ国へ帰ったとフランシスに聞いた。

ああ…軽蔑された…と、しばらくは生きていくのが嫌になって仕事はおろか食事も何もかも放棄していたが、やがて国民が奮起したらしく、フランスからの独立戦争が始まって、アーサーもそれに否応なしに巻き込まれて行き、最終的に勝って国に戻る事になった。

それからは全てを振り切るように働いた。
そうしているうちイングランドも小国ではあるが、なんとか格好がつくくらいにはなった。

そして今回、今はもう世界の覇権国家となったスペインの王女がこの地へ嫁いでくる事になったらしい。




会いたい…でも会いたくない。会うのが怖い。

そもそも300年近く前に1週間ほど一緒に過ごした事のある子供の召使の事など、世界を制する大国になったスペインの化身であるアントーニョが覚えているかどうかもわからない。
むしろ忘れている可能性の方が高いのではないだろうか……。

忘れられているのも怖ければ、汚いモノをみるような目で見られるのも怖い。
色々な意味で会うのが怖い。

そんな思いで迎えた王女の腰入れの日…
「初めましてやんな。スペイン王国の化身アントーニョや。よろしゅうな」
と、お互いの上司の前で差し出された褐色の手。
300年前よりさらに精悍さを増したその姿に、たってしまった長い月日が感じられる。

忘れ去られていても仕方がない…王女の腰入れが決まってから毎日自分に言い聞かせてきたものの、いざあの優しく可愛ええなと言ってくれた唇から、全ての思い出が消え去ったように、初めましての言葉が発せられた事は、思いのほかショックだった。

「初めまして…。イングランドです。」
なんとか涙を浮かべる事もなく、へたり込む事もなく、それだけ言って強張った笑みを浮かべて褐色の手を握り返すと、アントーニョは自らの上司に
「これから長い付き合いになるんやし、国は国同士仲良うさしてもらうわ。俺らもう退出してもええんやろ?」
とにこやかに問う。

仲良く?…無理だ…。
アーサーは助けを求めるように自分の上司に目を向けるが、
「ああ、そうだな。ぜひそうさせてもらうといい。」
とにこやかに言われて絶望的な気分になる。

「ほな、とりあえず俺の客室でも行って話でもしよか」
と、アントーニョに腕を掴まれて、強引に祝いの広間から連れ出された。

アントーニョはそのまま速足で廊下を駆け抜け、客間につくと、バタン!と乱暴に閉めた。
そのまま後ろ手にがちゃりと鍵をかけると、いきなりつかんだ腕を引き寄せる。
ぱふん!とアントーニョの胸に抱え込まれたアーサーが状況をつかめずにいると、アントーニョは強くアーサーを抱きしめたまま低くささやいた。
「堪忍な…あの時助けてやれんで、ほんま堪忍な…。」


覚えていた……?
呆然と目を見開いたまま固まるアーサー。

「自分一人助けてやれんでほんま情けない男やろ。でもアーサーの事一日も忘れた事はなかったんや。忘れられへんかった。だからあれから自分の事守ったれるだけの力つけよう思うて頑張ったんや。今度こそ自分の事守ったるから……。」

開いたままの目からポロポロ涙がこぼれおちた。
忘れられてなかったどころか、嫌われてもなかった…。

「…軽蔑…されたかと思った…」
「なんで?それ逆やろ。あんな状態でアーサー放って帰ったなんて、後で冷静になったらありえへん思ってどっぷり自己嫌悪に陥って、めっちゃ後悔したわ。」
堪忍な…と、目元に唇を寄せて溢れる涙を舐めとられると、力が抜けて膝から崩れ落ちそうになった。

「平気か?さっきから顔色悪いけど、ここまで無理しとったん?良いから休み」
長い緊張が解けて力がすっかり抜けきった体をアントーニョに支えられてベッドに優しく座らされる。

そのまま上着を脱がされて、軽く横たわる事をうながすように肩に置かれた手で押されると、一瞬体が硬直した。

ほんの一瞬、客のベッドで…いや、アントーニョが昨日そこで休み、また今晩もそこで寝るであろうベッドに横たわる事に対する戸惑いだったのだが、アントーニョはそうは取らなかったようだ。

「大丈夫やで、なぁんもせえへん。自分のトラウマ増やすような真似絶対にせえへんから、安心して休み?」
少し苦い笑みを浮かべて、ソッとアーサーの髪を撫でた。

相変わらずアントーニョは優しい。
優しすぎて泣きたくなる。

本当は…アントーニョなら構わないのだ。
いや、むしろフランシスにあんな事をされた体でも構わないなら、むしろして欲しい…。

優しいティータイムの思い出にすがって300年やってきたのだ。
たった一度でもいいからあの綺麗な褐色の手で体中余す事なく触れられて、あの精悍な体を受け入れる事が出来れば、その思い出で残りのとてつもなく長いであろう一生を生きていける気がする。

たった1週間、それも300年も前に一緒に過ごしたきりの召使の子供の事で、心を痛めていてくれたらしいアントーニョの優しさに対し、そんな不純な事を考えている自分の浅ましさをアーサーは恥じた。

涙腺がゆるみジワっとまたあふれてくる涙にアントーニョが慌てたように顔を覗き込んでくる。
「堪忍な。余計な事言うて嫌な事思い出させてしもた?それともどっか痛いのか?薬もろうてこよか?」
アントーニョの言葉にアーサーは首を横に振った。

「…自分が…」
しゃくりを上げながら言う。
「…汚くて…恥ずかしい…」

こんな薄汚れた浅ましい想いを向ける相手としてはアントーニョは綺麗過ぎた。
純粋に自分を庇護してくれようとしているのであろう相手に、それでも願わずにいられない自分が恥ずかしくて消えてしまいたかった。

「…汚れてへんよ。汚くなんてない。アーサーはめっちゃ真っ白で綺麗やで」
自分の方が痛みに耐えているような悲痛な表情でアントーニョは言う。

ああ…この優しい男にはこんな浅ましい想いを捨てられない自分の気持ちなど到底理解できないに違いない。

いっそこの男がフランシスのような男なら良かった。
そうしたら一度でいいから…とプライドも何もかも投げ捨てて懇願すれば、冷笑はされるかもしれないが、願いはかなえられただろう。
でも、抱いて欲しい…そのたった一言が、この男相手では言えない。
言った瞬間、自分の薄汚れた思いで、本当に綺麗なこの優しい男を汚してしまう気がするから。





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