生贄の祈り 第一章_2

サラサラと髪を撫でられる感触。
あまりそんな事をされた経験はないのだが、存外に気持ち良い。

撫でている手はお付きの女官の手にしては大きくて、しかしそう遠くない場所で当の女官のクスクスという笑い声がする事を考えると、あれから自分が敵国の手に渡ったと言う事はないのだろうと思う。



「目…覚ましてしまいますよ」
と、呆れたような女官の声に
「やって…見た目よりフワフワ柔こうて、めっちゃさわり心地ええんやもん。」
と言う若い男の声はどこかで聞いた事がある気がする。

昨日は緊張から気を失うように眠ってしまったが、まだ眠気は去らない。
夢と現の間を漂う意識に、温かい手の感触と合わせて明るく楽しげな声が心地良い。
現実は常に厳しいモノだから、もう少しこの非現実的な心地よさを感じていたかった。

「ああ…可愛ええなぁ…なぁんて可愛ええんやろ~…」
と呟かれる言葉。
自分の事…ではないだろうな…と思うものの、そ~っと大事な壊れ物でも扱うように頬に触れる手の感触がその考えを否定させた。
なのにそんなはずはない、という気持ちも捨てきれない。

自国に敵の刃を向けさせないための恭順の証、“人質”にすらまだなれず、相手の王に気にいられなければただその命を握りつぶされるだけの存在……あえて自分に名をつけるなら…そう、“生贄”だ。

考えてもその状況が変わる事もなく、ただ何も考えないよう、感じないよう生きてきたが、頭をなでる手の温かさが、心を守っていた壁にひびをいれ、そのひび割れからチョロチョロとたまっていた何かが流れ出していった。

すぐ近くで誰かの息を飲む音に、慌てて頬を伝っていく物をぬぐおうと目を開けると、目の前で少し困ったような顔をしていた男が優しい笑みを浮かべた。

「ああ、可哀想になぁ。怖かったやんなぁ」
と、慰めるような言葉と共に、自分のそれよりもかなり太く長い褐色の指で涙を拭われる。

慌てて半身を起こしたため、はらりと身体から滑って落ちたブランケットは、ベルがさりげなく拾い上げて、たたんでくれた。

「親分が来たからにはもう大丈夫や。何が来ても守ったるから、なあんも怖い事ないで。安心し?」
頭を撫でていた大きな手に引き寄せられ、そのまますでに鎧を脱いでシャツだけになった胸元に頭を押しつけられる。

こんなに誰かと密着したのは初めてかもしれない…。
守ってやる…なんて言葉をかけられたのも初めてだ。

温かい…。
涙は止まらなかったがその温かさに何か慰められて、アーサーは男のシャツをギュッと握ったまま、頭をさらに男の胸に押し付けた。

その仕草に頭をなでる男の手が一瞬驚いたように止まったが、すぐ頭の上の方から
「何からも守ったるからな。大丈夫やで」
と、もう一度なだめるような声が降ってきて、また頭をなでる動作が繰り返され、頭をなでているのとは反対の手で背中を優しくポンポンと叩かれた。

どのくらいそうしていたのだろうか…。

アーサーのしゃくりがやんだのを認めると、
「落ち着いたか?」
と、男は少し身体を離して身を低くし、アーサーの視線に自分の視線を合わせる。

そして
「ああ、泣きすぎて目がウサギさんみたいになっとるなぁ」
と、顔を近付けアーサーの目元に唇を寄せて、そこにわずかに残る涙をチュッと吸いとった。

「…っ!!!!」
アーサーは驚きすぎて声も出ない。
ただ全身真っ赤になって唇の触れた目元を押さえると、身体を離そうとして後ろへ倒れかかる。

「おっと…。危ないで。自分…トマトみたいやんなぁ。真っ赤になって可愛ええなぁ」
片手で軽々とアーサーの背中を支えた男は、楽しそうな笑い声をあげた。

自分より大人で…女受けしそうな適度に甘いマスクに精悍な体躯のこの男は、おそらくこういうやりとりにも慣れているのだろう。
田舎の世間知らずの子供の自分を丁度良いおもちゃとでも思ってるのだろうか…。
そう思うと少し優しい態度を取られたくらいで、先程まで心を許していた自分を殴り倒したい気分になった。

「からかうなっ!ばかぁ!!」
騙された…と、悔しさやら悲しさやら自分に対する情けなさやらが頭の中をぐるぐる回り、許容量を超えた感情の波が再び涙となって流れ出す。

しかしアーサーの理解とは裏腹に、男はそのアーサーの態度に笑みを消した。
そして困ったような困惑したような表情になる。
「堪忍な。別にからかってるつもりとかなかってん。泣かんといて。」
と、自分の方がオロオロとしてそう言うと、またギュッとアーサーを抱き寄せた。

「ほんま堪忍。ごめんな。泣かんといて。」
ぎゅうぎゅうと少し苦しいくらい抱きしめてそう言う本人の方が少し泣きそうな声で、嘘には思えない。

アーサーは男の謝罪を了解したという意味を込めて、自分の方から男の背にぎゅっと手を回した。





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