「あ~…そういうのは好きじゃない」
と、それを口にしたのは軽い気持ちだった。
一緒に暮らし始めて1ヶ月と少しくらいたった頃のことである。
箱入りのお嫁さまはまだ”普通の大人の嫁(だと本人は思っている)像”を模索しつつ、色々斜め上の方向に頑張っている。
『仕事と俺とどっちがだいじ?』
と、聞かれたのも、おそらくネットかどこかで”普通の嫁はそう言うことを言うもの”という情報を拾ってきただけなのだろうということも、いい加減理解していた。
だから、本来はそういうたぐいのことを言うような輩は好きではないのだが、別に本人が本当にそう思っているわけではないことも重々承知しているので、腹がたつこともない。
そんなわけで深い意味があって言っているわけではないからと、軽い気持ちでよく考えずにそう返したら、嫁はピキン…と固まった。
見る見る間に顔から血の気が失せていく。
人の顔色というのはこんなに変わるものなんだ…と、感心したのも一瞬。
その表情に不安を通り越して怯えと絶望を感じ取って、錆兎の方も顔色を変えた。
…ごめっ…ごめんなさっ……
青ざめた顔で泣きながら震えている嫁に慌てて駆け寄ると、
「すまんっ。別に責めてるわけじゃないからな?
おまえが何かでそんな情報を得てそういうものかと思って口にしてるだけなのはわかっている。
大丈夫。別に不快にも思ってないし、怒ってもいない。
単にそれも一部の人間だけでみんなが言うわけじゃないって伝えたかっただけなんだが、俺の言い方が悪かった。
ごめん。ごめんな?」
と、細い身体をだきしめるが、嫁はパニックをおこしているようで反応がない。
宇髄に義勇の生い立ちを聞いて知っていたのにうかつだった、と、錆兎は自分の軽挙を後悔した。
思えばこんな状況で一緒になって、いままで怯えもせずに馴染んでくれた事自体が奇跡のような幸運だったのだ。
それを不用意な一言で台無しにしてしまった。
錆兎がなにをいくら言っても義勇の耳には届いていないようで、その夜は食事も摂らずただ怯えて泣きながら謝るばかりで、錆兎は途方にくれる。
部屋のすみ…というか、わずかに出来たソファと壁の隙間に身を隠すように丸くなって声も出さずに震えながらただ涙をこぼすその姿は、虐待されて人に馴れなくなった子猫のようで、ひどく胸が痛んだ。
錆兎が近づくとビクゥっと硬直するので近づくのもはばかられて、野生動物を懐かせようとしている人間のように、義勇が好きな甘いお菓子やぬいぐるみなどを手に、少し距離を置きながらなだめる。
どのくらいそうやっていただろうか…いつしかしゃくりも小さくなって、義勇はくたりと部屋のすみの壁にもたれかかるように眠ってしまったようだ。
「…義勇?」
と、声をかけても反応がないことに、その時ばかりは錆兎もやや安堵して、それでもおそるおそる義勇に近づいていく。
一歩一歩、ゆっくりと……
そうして手が届くくらいの距離まで来て、そっと手を伸ばしてソファの隙間から起こさないように義勇を引っ張り出した。
コテンと力なく胸元に預けられる小さな頭。
いつもなら可愛いな、と、思うのだが、今日はそこでまたぎょっとした。
熱い…熱がある。
ハッとしてまず時計をみた。
21時半。
当然病院は閉まっている。
(…解熱剤…あったよな……)
などと考えながら、ほとんど条件反射で自分の寝室に運んで、義勇の部屋からパジャマを持ってきて着替えさせ、戸棚から救急箱。
冷凍庫からだした氷を砕いて氷枕に。
ついでに薬を飲む前に胃にいれさせようと小さなクーラーボックスに保冷剤とプリンを入れて部屋に持ち込んだ。
本当に本当に…今回はよく考えれば予測が全くできないというほどのことではなかったのかもしれないが、それでも錆兎の小さなお嫁さまはいつでも錆兎を驚かせる。
「…ごめんな…可哀想な事したよな…」
椅子の背もたれに顎を乗せ、額にのせた冷えピタに張り付いた汗で濡れた髪をはらってやる。
思えば義勇が来てから、自分のことでイライラしたり滅入ったりすることがなくなっていた。
振り回されすぎて落ち込んでいる暇もない。
本当は錆兎だって自分の境遇が不憫なことくらい気づいていた。
気づかないふりをしたって、どう考えたって不憫だ。
宇髄や実弥に同情されるくらいには……
存在を望まれていない…それは誰がどうみたって不憫なのだ。
でも落ち込んでどうなるものでもなし、意識したら余計に滅入りそうなので目をそむけ続けてきたわけなのだが、嫁をもらって初めてそんな努力が必要なくなっていることに気づく。
だって、少なくとも自分のお嫁さまは自分を必要としている。
こんな拒絶とも言えないくらいの小さな否定で泣きすぎて熱を出してしまうほどに。
可哀想で…でも愛しくて…相手が自分が生きていくのに必要不可欠な存在になっていることを錆兎は思い知った。
この子と一緒に生きていこう。
そんな決意とともに翌日、嫁の看病のため会社を休む。
それに対して錆兎の小さな嫁は、大切な仕事を休ませるなんて…と号泣しながら謝ってきたが、それに対して錆兎は言った。
「あのな…昨日の答え。
仕事よりおまえが大事。
昨日好きじゃないと言ったのは、よく試したりするためにそういう言葉を繰り返す女が多いから。
そういう女は好きじゃないし、真似する意味ないからな?ってことだ。
でも真剣に答え聞きたいということなら、仕事よりおまえの方が絶対に大事だぞ。
俺は今の会社にいるのは向こうから請われてで、他のところからも来てくれないかって誘われる程度には人脈も能力もあるから。
俺自身は会社やめたって全然痛くもかゆくもない。
でも嫁はおまえ1人だけだからな。
俺にとって唯一手放さないで良いずっと一緒にいられる家族はおまえだけだから、そんなに怯えてくれるな。
俺は一生おまえと暮らしてくって決めてんだから、もうすこしそのあたり信じておけ」
どこまで通じたのかはわからないが、嫁はまた泣きつかれて眠ってしまって、今のうちに食事の準備でも…と、立ち上がりかけた錆兎は、立ち上がれないことに気づいた。
クン!となにかのひっかかりを感じて下を見ると、錆兎のシャツの裾を小さな手がしっかり握りしめている。
(…ああ、、くそっ!お前、可愛すぎだろう…)
背もたれにつっぷす錆兎は耳まで真っ赤になって悶え転がる。
これが喧嘩…と言っていいやらわからないが、一緒に暮らして最初の夫婦喧嘩らしきものだ。
体調まで崩されてしまったので、錆兎的には少しトラウマで、もともと年の差が大きいのもあって可愛がってはいたのだが、その後はさらに嫁に甘くなっていったのだった。
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