その日は朝からドキドキしていた。
なにしろ友人と言えるような相手がほぼいない義勇の家に初めて客が来る。
それも…相手はあのリーマン、錆兎だ。
電車で気分が悪くなった義勇を錆兎が助けてくれたあの日から早1カ月の時が過ぎたが、驚いた事に彼との交流はまだ続いている。
続く事になったきっかけはあの日の翌日だった。
義勇はその日も普通にいつもの時間に電車に乗ったのだが、しばらく乗っていると後ろに立っていたサラリーマンらしき中年の男に何か押しつけられた。
最初は気のせいかな？と思ったが不快ではあったし、まだ少し移動できる混み方だったので少し移動したのに、その男は義勇がずれたのと同じ距離ずれてついてくる。
それでちょっと気味悪いなと思っていたら、なんとシャツの前ボタン一つ外して手を入れてきた。
そしてもう片方の手が急所に回って来て…。
体格が悪いせいなのか、実はちかんに遭うのは初めてではない。
押しつけられるくらいはよくあるし、ズボンの上から尻とか触られるのもよくあるが、直にとか股間とかは初めてで、どうして良いかわからなくて、でも混んで来て動けなくて、俯いてた。
女性じゃあるまいし、男の自分が男にちかんされているなど、恥ずかしくて言えなくて、とにかく早く駅につけば良いと思うが、そう言う時に限ってなかなかつかない。
怖くて気持ち悪くて泣きそうになって、実際じわりと涙が溢れそうになった時、
「おい、ちかんは犯罪だぞ」
と、どこかで聞き覚えのある声がして、不快な手が身体から離れて行く。
驚いて振り向くと、焦る中年男の手をひねりあげている錆兎。
本当に…本当にお前はどこのヒーローだ！！と言いたい。
目を見張るくらいの美形リーマンが毅然と悪漢を成敗しているのである。
周りの女性陣の目がキラキラ輝いている。
もう同性の義勇ですらカッコよすぎて惚れそうだと脳内泣き笑い状態だ。
そのまま男の手を掴んで拘束しながらも、錆兎は片手をドアについて空間を作り、義勇をかばってくれる。
イケメンでスタイルが良くて頭が良くて仕事が出来て？
そこにもう一つ腕力と実行力のあるヒーローと言う要素を、義勇は脳内の錆兎のスペックに付け足した。
こうしてちかんを駅員に引き渡し、事情を話して――と言っても要領を得ない義勇の代わりに全て錆兎が説明してくれたのだが――色々が終わったら当たり前にまた遅刻。
そこで嫌な思いをして落ちつかないだろうし遅れついでにとお茶をごちそうになって、ちかんに遭う事も貧血を起こす事も初めてではないという話になった時に、心配すぎるから…どうせ通り道だからと言いだして、義勇の自宅の最寄り駅の改札で待ち合わせて学校の最寄り駅まで一緒に行ってくれるようになった。
世の中にここまで人の良い人間がいるとは思ってもみなかった。
本当に良い人過ぎて申し訳ない。
だけど、これまで親切にしてくれるどころか普通の友人すらいなかったので、そうやって親しく接してくれる錆兎の優しさが身に染みすぎて断れない。
もともと1人が好きなわけではないのだ。
そう…他人と親しくできずに距離を取られるだけで……
そのうちさらに土曜日には錆兎は休みなのに義勇の最寄り駅のスタバで待っててくれることになり、さらにその翌々週には帰りに互いに同じ映画が観たいと言う事になって、一緒に観に行くまでになっていた。
正直…誰かと映画に行くなんて初めてでドキドキした。
義勇が学生で自分は社会人だから…と、当たり前にチケット代も食事代も受け取ってもらえず、至れり尽くせりすぎてますます申し訳なくなった。
錆兎だってどうせ自分が全てを出して一緒に行くなら綺麗な女性の方が良いだろうし、実際にその気になればより取り見取りだろう。
なのに相手が自分みたいに冴えない男子高校生なんかで本当に申し訳ない。
何かお礼でも出来れば良いのだが、義勇が買えるものなど錆兎は当たり前に買えるだろうし、自分には何が出来るだろう…そう思って得意な事を思い浮かべる。
姉が好きだったので一緒にやっているうちに多少上達した手芸。
おそらく錆兎より出来るのはそれくらいだ。
しかしあまり凝った手芸は重いと、周りが話していたのを小耳に挟んで自覚はしている。
それでもワンポイントの刺繍をしたハンカチくらいなら大丈夫だろうか……。
ということで、映画を見て食事をして帰宅をしてお礼がてら電話をかけて、次の週の週末が連休だったこともあって、自宅に招きたいので来てもらえないかと誘ったら快諾してもらえて、今日に至る。
誰かを自宅に招くのなんて本当に初めてで、ドキドキする。
ドキドキしすぎて前日は眠れなかったくらいだ。
そして約束の時間。
ほぼ時間通りにドアのベルが鳴る。
待たせたら帰ってしまうかもしれない…そんな事を思って焦って玄関に走ってドアを開けると、ふわりと香る花の香り。
「今日は招待ありがとうな、義勇。
これ、義勇に似合いそうだったから」
と渡される可愛らしい白い薔薇の花束。
もう最初っからクライマックスなイケメンっぷりだ。
さらに手土産には美味しい焼き菓子。
義勇が紅茶を淹れると当たり前に褒めてくれて、以前きつねが好きなのだとそんな話を聞いたので小さくきつねとイニシャルを刺繍したハンカチをプレゼントしたら、とても喜んでくれた。
他の相手ならうまく会話が出来なくて気まずい沈黙が続いてしまう義勇相手でも錆兎はとても話し上手で、さらに義勇にも答えやすいような話を振ってくれる。
まるで夢のように楽しい時間だった。
そうして2時間ほどして錆兎が帰ったあと、義勇はふ～っと息を吐き出す。
1人きりになった部屋はさきほどまでのにぎやかさが嘘のようにシン…としていて、なんだか姉が結婚して家を出た日のあの寂しさを思い出した。
錆兎は…いつまでこうして仲良くしてくれるのだろうか……
いつのまにか居る事が当たり前になってしまえば失くした時の辛さが耐えがたくなってしまう…
いや…もう手遅れだろうか……
ああ…もう今考えるのはよそう……
そう思いなおして茶器を洗って、部屋の片づけでも…と思った時にそれはまた訪れた。
…貧血の兆候……
まずい…と、思う。
おそらく寝不足と今日1日食事を抜いたのがまずかったのだろうか…
とりあえず胃にホットミルクでもいれておこう…
そう思ってミルクパンに牛乳を注ぎ…フラフラしながらコンロに向かう。
まっすぐ歩けない……
目の前が揺れる……
や…ばい……
身体中から力が抜けて……
そして……
目の前が真っ暗になった……
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