生贄の祈りver.普英_1_1

生贄の森


生命の気配の消えた馬車の中、アーサーはなるべく身を低くして、息を殺してあたりの気配を探っていた。
シン…とした中、遠くに見える火の手。
そして、剣を交える金属音と兵士の声。

逃げなければ…と、それは捕食される弱者の本能で思うものの、何から逃げるのかと考えると答えは出ない。

本来送られるべき鋼の国からか…それとも今襲って来ているらしい襲撃者からか…はたまた別の何かからなのか……



アーサーの国、森の国は3つの大国、鋼の国と大地の国、それに風の国に囲まれている小国群の中にある。
取り巻く3つの大国は3すくみ状態であるため大きな動きは滅多にないものの、お互いがお互いの動向に目を光らせながらも、時折り小国を取りこんで己の領土を広げていた。

そんな肉食獣に囲まれて逃げ惑う小動物のように右往左往する大半の小国では、自衛のために次男以下の王子を“友好の証”と称して大国に預ける事が慣習となっている。

もちろんそれが“友好”になるかは本人次第。
大国が小国の子供がいても気が向けば普通にその国を攻める事はままある事だ。

ようは…送られた子供が相手に“気にいった相手の国を攻めたくない”と思わせなければあまり意味のない慣習なのだ。

更に言うなら送る側も送る側で、その目的は必ずしも送り先に気に入られる事とは限らない。

なかには数多くの小国の王子を抱えている大国もあり、その中で”特別”になるという事はたやすい事ではないため、それならいっそ…と、逆に他の大国に通じて別の大国に友好の証のフリをしながら実際は間者として送りこまれ、スパイや暗殺など、送りこまれた先の国を陥れるという目的を持つ場合も少なくはないのである。

つまりお互いにとって、信用のならない相手との信用のならない共同生活にすぎないわけだ。

それでもそういう慣習がなくならないのは、稀に上手に信用関係を築ければ、大国は小国の盾になれるし、小国は大国ほどではないにしろ、その国が得られない情報を得たり、関係を知らない国との戦いの際に思わぬ伏兵になったりできるというのと、もう一つ、そんな不安定な間柄で爛れた関係を持つと言うのが、ある種退屈した貴族の楽しみの一環になっているからだ。

送られるのが王子であって王女でないのは、子供ができないという事が大きな要因である。
血筋が重要視される王族の間ではお互いにお互いの血が管理できない形で入ったり漏れたりするのは決して好ましい事ではない。



そういうわけで、アーサーも大国、鋼の国に送られる事になった一人だ。

小国の次男以下に生まれた…という時点でそんな人生が待っているのは目に見えていて、今更損得勘定抜きに好意を交歓するなどという希望を持っているわけではない。
そんなものは小説の中か非常に恵まれた大国の王族の生活の中だけに存在している。

王宮の奥深く…人質として送られる事を前提に余分な希望などは持たぬように育てられ、ただ壁と空を眺め、自分よりはよほど自由に楽しげにさえずる小鳥達を羨みながら時を過ごしてきた。

幸せになりたい…などという大それた野望は持たず、夢見るのは生まれ変わったら…という、現世を終えたのちの世界の事である。

こんな風に王宮の塀の向こう、決して豊かとは言えないこの小国の国民達の誰よりも、アーサーは今を諦めるという事を知っていた。






こうして13歳の春…当たり前に大国である鋼の国へと送られる事が決まり、それまで見た事も触れた事もないような上等の絹の長衣を着せられて、まるでおとぎ話に出てくるような繊細で美しいレースのヴェールをかぶせられ、初めて馬車に乗って王宮の壁の外へと出る事になった。

世界は眩しく美しい。
森の国は豊かではなかったが、文字通り繊細な針葉樹を中心にした大きな森に囲まれていて、隣国である鋼の国まではその森に通った道を抜けて行く事になる。

数歩も歩けば塀にあたり、そこでお終いだった王宮。
それまでアーサーの世界の全てだったそことは違って、森は遥か続いていて涼やかな風が流れ、日中は柔らかな木漏れ日がキラキラと光る中で城では聞いた事のないような種類の鳥のさえずりが聞こえてきた。

本当に今まで見た事もないほどに美しい光景……

しかし人間関係を築くのが得意ではない人みしりのアーサーにとっては他国に送られるというだけでも十分気が萎えるのに、警戒しているであろう相手に気に入られなければならないというあまりにも無茶な使命を帯びているのでもう憂鬱どころの話ではないのだった。





アーサーが送られる事になっている相手先の鋼の国は大国3国の中で最も苛烈な武闘国家だ。


当主は銀の悪魔と呼ばれる若き王。

肌は白く身体こそ細身だが、実は全身無駄のない筋肉に覆われていて、噂によると口は耳元まで裂け、目は血の色。
視界にはいったものは全てその愛用の銀の大剣で一刀両断にされ、逃げれば背後から呪いをかけられ、朽ちて死ぬと言う噂だ。

それは本当に人なのか?
人見知りだからとかそう言うレベルではない気がする。

たぶん自分は王子達の中でも兄王に嫌われているのだと思う。
腹違いだからだろうか。
4人いる兄弟の末子ではあるが、自分だけ母親が違い、自分だけそんな恐ろしげな国に送られる事になったのだ。


それでなくても城の外に出るのは初めてだと言うのに、その初めて出る目的がそんな恐ろしげなまるで化け物のような王のおさめる国との友好を保つための人質である。
いや、人質にすらならない可能性とてあるのだ。

そう…気に入られなければ、ただ死ぬだけ。
化け物に食われる生贄となるだけの人生である。

それは覚悟していた事とはいえ、ひどく気が重い事に変わりはなかった。





こうしてどちらにしても憂鬱な気分を胸に鋼の国へ送られるための道中も半分ほど過ぎた国境で、それは起きた。

いきなりガックン!と大きく揺れて止まる馬車。
兵士の怒鳴る声と剣戟の音。

「何事っ?!」
と、馬車の窓から顔を出した随行の使者は飛んできた矢に首を撃ち抜かれて瞬時に命を落とした。

だらん…と、力を失う身体。
人が死ぬと言う光景を初めてみた。

それまでは漠然と知っていた死というものを目の当たりにして、アーサーはそのリアルさに戦慄した。



ヒッ!と窓から少し遠のいてしばらく固まっていると、やがて開く馬車のドア。

そこから血塗れの剣を持った兵が顔を覗かせる。

それが襲撃者の側の者なのか鋼の国の側の者なのかもアーサーには見わけがつかない。
が、どちらも等しく恐ろしいモノに見えた。

不幸がじわじわとアーサーの世界を侵食して行くのを感じる…。



馬車の壁にへばりついて硬直していると、血まみれの手が伸びて来た。

ずるり…ずるり…と近づいてくる不運の象徴……

それはあたかもアーサーを暗雲たる運命に引きずり込もうとしているように見えて、アーサーは恐ろしさにただカタカタと震えることしか出来ない。




そして、その恐ろしい手にグイっと腕を掴まれて、悲鳴をあげる事もできずに担ぎあげられた。

グルリと反転する世界。
別の手が伸びてきて何か紐のようなもので両手を後ろ手に縛られ、布で口を塞がれる。



「引くぞーー!!!」
と声をあげるところを見ると襲撃者の側なのだろう。
そもそも襲撃者は誰なのか…


国にいれば誰も存在を望まないアーサーなのに一歩外に出ればこうしてその身が取りあいになるというのは皮肉というにもあまりにひどい。

どちらに転んでもアーサーにとっては良い結果になるとは思えなかった。

餌に飢えた複数の肉食獣の中に放り込まれた草食獣のようなものである。
どれに食べられたとしても痛く苦しい事には変わりはない。


じわりと浮かんでくる涙で視界がぼやける。
何故自分ばかりこんな恐ろしい目に遭うのだろうか…。

生まれてこの方ずっと閉じ込められるようにして育った小さく薄暗い部屋は、さきほどまで乗っていた馬車ほどの座り心地の良さもない固い椅子一つと粗末な木のテーブル、それにアーサーのような子どもが1人横たわればいっぱいになってしまうようなベッドしかないようなところだった。

更に言うなら王位継承権も限りなく低いうえに国防に活躍できるような丈夫で頑丈な体も持たずに生まれたアーサーに対しては召使達ですらぞんざいな態度を取っている居心地が良いとは言えない場所だったが、それでも最低限の安全は確保されていた。


そう、そこには緩やかな苦痛というものはあっても、こんなに鮮明な恐怖は存在しなかったのである。

ジッと耐えていれば苦痛は通りすぎ、耐えたくないと思う時は目をつむれば穏やかな眠りの中に逃げ込めた。

こんな事になるならあの場所に居る間に緩やかに死を迎えた方が良かったのではないだろうか…と、アーサーは今更ながら悲しく思った。




縛りあげられた状態で担ぎあげられて全てが自由にならない中で、光色のまつげの縁からキラキラと涙の雫が流れる波のように揺れる薄いレースのベールの裾を彩るように宙を舞う。

それはまるで戻るための術にはならないパンの道しるべをまきながら、月明かりの下、深く恐ろしい森へと足を踏み入れるヘンゼルとグレーテルのようだった。

それよりさらに悪い事には、アーサーには励まし合う兄弟すらいないのである。

暗い暗い森の中、ただただ攫われて行く……
いったいどこへ……?…

恐ろしい物語はまだ始まったばかり……

だけど、もう全てのページを閉じてしまいたくて、アーサーは閉じられないページの代わりに唯一自由になる真っ白な自分の瞼をそろそろと閉じた。

それでも瞼の向こう側ではゆっくりゆっくりと、物語は進んでいくのではあるのだが……



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