プロローグ
俺は猫である。名前はアーサー。
垂れ耳のスコティッシュフォールドだ。
毛並みは全体が白くて頭の左上半分と尻尾が金茶色。
歳は15歳になる
そう…猫としたらもう大概ジジイだ。
いつ死んでもおかしくない。
…というか、そろそろ寿命らしい。
ここ数日身体の自由がきかず、お気に入りの猫ベッドに寝かされている。
ベッドの横にはトイレと飼い主。
いや、その二つを一緒にするのはまずいのかもしれないが…。
俺の飼い主はいわゆる人間的にはかなりイケメンの部類に入るらしいラテン男だ。
そんな男が今顔を涙と鼻水でデロデロにしながら泣きじゃくっていると言う事は、俺はそろそろ死ぬのだろう。
ああ…本当に良い人生…いや、猫生だったな…と、俺は小さく目を閉じた。
誕生
「かっわゆ~い!本当に何度見ても生まれたての子猫は可愛いよねぇ。
自分で飼えないなんて、お兄さんすごく残念。」
俺の最初の記憶は文字通り気に障る、いやに気障な男の声だ。
まだ視界はぼんやりしていてよくは見えなかったが、周りは温かく、俺は柔らかいタオルのようなものの上でどうやら4匹の兄弟と共にいたらしい。
目が見えるようになってから形状を認識したこの気障な感じの髭男は俺の母猫の飼い主、つまりは俺の最初の飼い主であった。
人間としては珍しい事ではないと後に知るのだが、この男は気障で耳障りな話し方をするだけではなく、人間界の中では香水と呼ばれる臭い匂いの元をつけているのでしばしば鼻が曲がりそうだった。
が、兄弟の中では一番チビで貧弱で、あまり乳の良く出るおっぱいを確保できずにいた俺のために、しばしば他の兄弟を隔離して俺が思う存分乳を飲める時間を作ってくれたりと、なかなか細やかな男ではあった。
そんな風にこいつは俺がまず飼い主と認識した相手だったのだが、母猫の飼い主であるこの男がずっと俺の飼い主…というわけではない。
男は元々知人に譲るために母猫に俺達を産ませたらしい。
だから産まれてから2カ月ほどたつと、知らない奴らがやってきて、兄弟が1匹、また1匹といなくなっていった。
だが、俺は知らない奴らが怖かった。
飼い主の男と同じようなとてつもなく臭い匂いをふりまきつつ、いきなり伸びて来る手。
そのまま掴まれて飛んでもない高さまで持ち上げられた時は全身の毛を逆立てて思わず引っ掻いてしまい、自分の身体の数倍もの高さから落とされかけた事もある。
それがトラウマでしばらくは誰が手を伸ばしても怖くて唸っていたら、自然と誰も手を伸ばしてこなくなった。
元々チビで栄養を取れず貧弱で毛並みも悪かった事もあるのだろう。
兄弟が全員貰われて行ったあとも、俺はただ一匹残されて、髭は少し困った顔で、「やれやれ、おチビちゃんは仕方ないからお兄さんが頑張って飼うかね」と言っていた。
喜んで貰われて行った兄弟達。
貰われるあてもなく、髭が仕方なく飼うと言う俺。
そう、俺は望まれていない存在なのだ…と、その時子猫ながらにその事を悟ったのだ。
出会い
その男は随分と呑気で間抜けだったらしい。
最後の兄弟が貰われて行って、もう1週間ほどたった頃、髭男の家に1人の男が訪ねて来た。
「フラン、子猫見せてや~。親分めっちゃ楽しみにしとったんやで~」
廊下から聞こえてくる、やけに明るい声。
お日様のようだ…と何故か思った。
一方で髭男の方は少し苦笑気味。
「お前、楽しみにしてたって言うわりに来るの遅いよ。
もう大半は貰われて行っちゃって、一匹しか残ってないよ。」
ああ、もっともだ。
俺達が産まれて髭男が兄弟を里子に出すまで2カ月。
それからさらに1週間ほど。
楽しみにしていたと言うわりにお前はこれまで何をしていたんだ?と俺も問いたい。
しかしながら俺は相手の言う事は理解できたが自分の意思を相手に伝える術は持っていなかったので、疑問はただ一声「まぁ~お」という鳴き声に集約するしかなかった。
当然ながらその真意が男に伝わるはずはなかったが、俺の声に男は
「おおっっ!!かっわ可愛え鳴き声やんっ!子猫ちゃんのやんな?」
とさらにはしゃぎ出す。
その声は本来は静寂を愛するはずの俺にとっても何故か心地よく響いたが、それでも俺は知っていた。
実際に男がこの部屋に来て俺のゲージを覗き込んで手を伸ばしてくれば俺は反射的にひっかいてしまうだろうし、そうしたら男もつい今さっき可愛いと言ったその口で俺の事を凶暴で可愛くないと忌々しげに言うのだろうと。
そんな俺の気持ちを代弁するかのように髭が言う。
「うーん…声は可愛いんだけどね。
人見知りですぐひっかいちゃうから、みんな可愛げがないって言って貰い手がないのよね。」
うん…事実だな。
事実だから仕方ない。
それでも…髭のその言葉に俺は十分傷ついた。
だって俺が嫌われ者だなんて事は誰より俺が知っている。
太めの尻尾が自然とダランと下がって、視線も床に。
入れられている箱の隅っこに身を寄せ、下に敷いているタオルに顔をうずめた。
とても男と顔を合わせるような気分ではなかった……のに……
「…ぅ…わ……見た目もめっちゃ可愛えやん…。
フィリップに聞いとったけど…いきなり抱っこしてひっかかれたんやて?
当たり前やん。
子猫と人間の背ぇの違い考えてみ?
自分かていきなりでかい知らん奴が自分の事掴んで、自分の身長の数倍…それこそ自分やったら10mくらいの高さんとこまで急に持ち上げられてたら、絶対にビビるで?
この子はきっとデリケートで賢い子ぉなんや。」
廊下にいた時と違って、小さく抑えた声。
――初めましてやで――と身をかがめて向けて来る笑みは優しい。
きっと声のトーンも俺を驚かせないようにとの気遣いだったのだろう。
善意と好意が全身から溢れだしているような男に、俺は小さく顔をあげた。
――まぁ~お――と声を返すと、男は「自分、もしかして親分が挨拶しとるのわかっとるんか。賢い子ぉやな」とまた笑顔を見せる。
俺はこの時髭以外で初めて怖くない人間にあった気がした。
なにより俺の気持ちをわかって代弁してくれた事が嬉しかった。
こいつの事はひっかきたくない…傷つけたくない…
心の底からそう思うが自信がない。
相手を恐れてというより、自分の行動が怖くて緊張に身を固くする俺に、男はやっぱり笑顔で少し離れたところまで手を伸ばすとそこで一旦止めて
「自分の事撫でてええ?」
と聞いてきた。
そんな事を聞く奴は初めてだった。
俺の意思を尊重しようとする奴なんて産まれてこのかた見たことがない。
ひっかかないで良いように…相手が止まっていてくれる間に自分から…
そう思って俺はおそるおそる男の手に近寄った。
ふんふんと匂いを嗅いでみる。
不思議な事に男からは他の人間からする臭い匂いがしなかった。
なんだか安心するようなお日様と土の匂い…。
ああ…今なら大丈夫かもしれない…。
俺はぺろりとその手を舐めて、それから男を見あげて、撫でて良いぞという思いを込めて、――まぁお――と鳴いた。
男が息を飲む気配。
「…なんや…めっちゃ人懐こくて可愛え子ぉやん。」
と、髭に言うと、俺の頭にソッと手を伸ばして来る。
そう、飽くまでゆっくり、そっと、そっと…。
男の手は温かくて良い匂いがする。
撫でる感触が気持ち良くて、俺は目を細めてゴロゴロ喉を鳴らした。
「おや、珍しい。ちびちゃんお前には懐いたのね。
お茶はいったよ~」
少し離れたところで髭の声がする。
良い気分が台無しだ。
「ああ、おおきに。」
男が髭の方を振り向き、撫でる手を止めた。
近づいてきた時と同じくゆっくり離れ始める手。
いやだ…!
たくさん友人がいてどこにでも行ける髭より俺を構えっ!
――まおっ
自然と声と手が出た。
男の手を追いかけて俺は立ち上がり、前足を男の手にかける。
ぴたっと男の動きが止まる。
綺麗なグリーンの瞳がまんまるくなった。
そしてまた笑う。
そう、男はよく笑う。
「んー。一緒にいてくれるん?
ほな、親分自分の事抱っこしてええかな?
絶対落としたりせえへんから。」
優しい声とともに男の大きな褐色の両手が差し出された。
俺は少し迷って、でも結局その手の上に乗る。
すると男はやっぱりゆっくり俺を引き寄せ、最終的に自分の胸元にぴったりとくっつくように俺を抱いて、さらにゆっくりした動作で立ち上がる。
その際も「大丈夫やで。怖ないからな~」と俺を見下ろしつつ声をかけてくれた。
そうしておいて、男は髭に勧められるまま、ソファに腰を下ろす。
以前抱きあげられた時と違って、胸元にぴったりとくっついているので落とされそうな不安定感を感じない。
兄弟の中にはあまり密着すると閉塞感を感じて嫌だと言う奴もいたが、俺はこの包まれている感に安心した。
男は髭と雑談をしながらも、俺を忘れる事も無視する事もなく、時折り俺を見下ろして笑いかける。
そして俺の身体を支えている方と反対側の手で、頭や耳の裏、顎なんかを撫でたりするもんだから、俺はそこが実は不安定な高い場所だなんて事をすっかり忘れて喉を鳴らして寛いでいた。
そうして1、2時間ほどたった頃だろうか。
男はこれからバイトだから…と、そろそろ帰る旨を口にした。
その頃には俺はこの男の匂いや距離感がすっかり気に入ってしまっていた。
これを逃したらきっと、誰も仕方なしに飼われている俺の事なんて気にしてくれる事はない。
男がそっと立ち上がって、俺をしっかりと両手で支えて胸元から放そうとするのに、思わず男のシャツに爪をたててしまった。
俺の身体が離れる分、伸びるシャツ。
それに、男は嫌な顔をする事もなく、小さく噴出した。
「なあ、フラン。この子、親分が貰うてったらあかん?
可愛すぎて放されへん」
そう言ってもう一度自分の胸元に俺を引き寄せて、頭を撫でてくれる大きな手。
その言葉に俺はびっくりして目をまん丸くしながら男を見あげた。
だってそうだろう?
俺は貰い手がなくて仕方なく飼われているような猫だ。
兄弟達みたいに綺麗な毛並みも愛想のよさも持ち合わせていない、見かけも性格も貧相な猫なのだ。
そんな俺を可愛いから飼いたいだって?!
この男、なんて変わり者なんだ。
自虐的にそんな事を考えてみても、そんな風に言われた事が嬉しくて、つい尻尾がぴーんと立ってしまう。
しかし髭は男の言葉に歯切れ悪く
「お兄さんは元々子猫達は全員里子に出すつもりだったから良いけどさ…お前生活大丈夫なの?苦学生。」
と、気遣わしげに眉を寄せた。
苦学生…というのは、貧乏な学生という意味らしい。
男はこの時まだ学生で、親からの支援もなく、奨学金とバイトで学費と生活費をまかなっていたという事を俺は後に知る事になるが、この時はまだ産まれたての子猫だ。
そんな人間の事情など知るはずもない。
ただ髭の声音から、どうやら俺が男に飼われる事は男にとって良い事ではないらしい…という事だけ感じ取った。
そうだよな…兄弟達みたいに望まれるような猫ならとにかく、俺みたいなのを飼って良い事はないよな…
ぴん、としていた尻尾が見る見るしょぼんと垂れさがっていく。
男から放されるのを嫌うように男のシャツに立てていた爪もひっこめ、大人しく箱に戻されるのを待っていた俺だが、意外な事に男は俺を箱に戻そうとはしなかった。
――一生懸命育てるさかい、俺がどんだけ大変な思いしても絶対に苦労させへんからっ
などと、俺を抱きしめたまま、まるで貧乏な若いサラリーマンが金持ちに娘を嫁にくれと頼んでいるみたいな台詞を吐くのだ。
笑うしかない。
俺みたいに望まれない仕方ない猫を、本当に大事で価値のあるものみたいに言うなんて、こいつは本当の馬鹿だ。
それでも、バカバカしくても俺は嬉しくて、垂れさがっていた尻尾がぴんとまた立ち上がった。
髭は猫の仕草や感情を熟知している奴だから、そんな俺の感情は奴にはバレバレだ。
少し苦笑をしたあと、
「まあ…チビちゃんはお前さんの事随分気に入ってるみたいだし?
お兄さんのところにくれば餌とかも分けてあげるから、遠慮なくおいでね。」
と最終的に俺を飼う許可を与えた。
こうして髭が俺に必要そうな物を一式用意して、餌と一緒に大きなボストンに詰め込んで男に渡し、俺はこの男の家で飼われる事になった。
これが、良い匂いがして人間的にイケメンという部類にはいるらしい、しかし貧乏な男、そして俺の終の飼い主になる、今まさに目の前で鼻水を垂れ流しながら泣いている男、アントーニョ・ヘルナンデス・カリエドとの出会いであった。
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