しかしバックミラーに映ったアーサーが駐車場でしゃがみこんでいるのが見えて、焦る。
車の流れがあるので即止めるという事も出来ず、マンションの区画の周りの道路をグルリと1周。
慌てて駐車場に戻るもそこにはアーサーはいない。
…気のせいだった…か?
と首をかしげるが、結局どうしたって心配なのだ。
なにしろ無理をする人間だと言う事はこの1年弱一緒に暮らしてきてわかりすぎるくらいわかっている。
しかし孤児だと言うアーサーが言ったお守りというのは、おそらく捨てられた際に一緒に添えられていたとかそういう類のものなのだろうから、ギルベルトが想像するよりずっと大切なものなのだろうし、手元にないと落ち付かないだろう。
さて、どうする…。
いっそのことアーサーが申告する前にフランシスあたりを呼びつけて付き添わせているか…?
いや、それも人見知りなところのあるアーサーとしては落ち付かないところだろう。
…あ…そか、逆にすれば良いのか。
しばらく駐車場に停めた車の中で考え込んでいたギルベルトは思いついて顔をあげた。
そうだ、忘れ物の方をフランシスなりアントーニョなりの悪友の暇そうな方に取りに行かせればいい。
幸いにして全員それなりに顔が知れている。
ギルベルト本人が悪友に取りに行かせると連絡を入れたら店も対応してくれるだろう。
そう思って先にフランシスに電話を入れた。
『お兄さんだよ~。なあに?ギルちゃんがこんな時間に電話って珍しいじゃない?』
と、当たり前に出たフランシスの後ろでは女性の声。
どうやらデート中らしいので、電話をかけた理由だけ話してアントーニョに頼む旨を伝えると、基本的には人が良く優しいフランシスは
『あ、いいよ~。お兄さんが行ってあげる。
デート中なんだけど、そこでご飯にするから。
お店の場所教えてよ』
と言ってくれたので、頼んでおいた。
正直…大雑把なところのあるアントーニョよりはフランシスの方がこの手の事を頼むのには都合が良い。
絶対に破損や紛失はさせたくない。
「ダンケ。今度埋め合わせすっから」
と、店を教えて電話を切って、今度は店の方にフランシスに取りに行かせるので預けて欲しい旨を伝え、全ての手配が終わるとギルベルトは急いで車を降りた。
こうして急いで自分達の部屋へ。
万が一気分が悪くて寝ているなら、病人に玄関先まで足を運ばせてはいけないと、ソッと鍵を開け、静かに中に入る。
室内は真っ暗だが、もしかして寝ているのだとしたらあまり強い灯りも良くないだろうと、廊下の電気をつけて、リビングを覗き込んだ。
そしてソファに誰もいない事を確認してリビングの灯りをつける。
ここに住み始めた時から、外から帰った時はいつもアーサーが隣にいたからどこか変な感じだ。
リビングにいないと言う事は寝室で眠っているのだろう。
そう思って念のため様子を見ようとギルベルトはソッとアーサーの寝室に足を踏み入れた。
……え?
暗い部屋。
閉め切られたカーテンのせいで月明かりすら入らないのでよくは見えないが、少なくともベッドに人の姿はない。
パチッ!と慌てて灯りをつけて、ギルベルトは呆然とした。
元々アーサーは私物が少なく、部屋もガランとした感じではあるのだが、どこかおかしい。
まるで生活感がない。
足早にクローゼットに駆け寄って開けてみると、案の定、空だ。
アーサーが住んでいた痕跡が消えている。
何故?何が起こっている?
ギルベルトは急いで今度は自分の寝室へと飛び込んだ。
灯りをつけるとそこは朝と何も変わりはなく、無くなった物もない。
そうして混乱したままもう一度自分の寝室を出てリビングに戻ったギルベルトはそこに一枚の書き置きをみつけた。
本当にシンプルな1枚の白い紙にただ一言…
――今までどうもありがとう。 アーサー
とだけ。
…出て…行ったのか……
あまりに突然の出来事に、ギルベルトはフラフラと力なくソファに座りこんだ。
そして思い出す。
この生活は元々ギルベルトが役作りのためと頼みこんで始まったものだ。
2人が恋人同士として一緒に演じる撮影が終わったら、一緒に暮らす理由もなくなる…ということなのだろう。
何故だかギルベルトはそんな事も全く頭になかった。
2人の生活は当たり前にいつまでも続くのだと思い込んでいた。
でも考えてみれば…アーサーは恋人を演じながらもどこか自分に対して一線を引いていたように思う。
どんなに頼って甘えてくれと言っても、自分の事は出来る限り自分でというスタンスを崩す事はなかったし、今までプライベートでギルベルトの周りにいた数少ない過去の恋人達のように、ギルベルトに何かをねだってくることもなかった。
そんなアーサーが唯一ギルベルトにねだってくれたのが今日の夕食で…普段ねだることのないアーサーのそれが嬉しくて、浮かれて欠片も怪しんでみなかった自分はなんて迂闊な男だったんだろうと思う。
アーサーはおそらく仕事のためにとこの生活を受け入れてくれて、それを完遂して出て行ったのだ。
それを無理に引き留める権利は、自分にあるはずがない…。
全てを理解して…でも心は現実を受け入れられないまま、ギルベルトはもう一度アーサーの寝室へと足を運んだ。
綺麗に整えられた部屋。
…ここで…今朝もアルトが寝てたんだよな……
と、そっと触れてみるが、それは出て行くことを想定していたのだろう。
綺麗にベッドメイキングをされた状態で、使われた形跡すらもう感じられない。
ギルベルトは綺麗なベッドを見てこんなに悲しい気持ちになったのは初めてだった。
まるで悪夢を漂っているような気分だった。
だって、今朝自分は確かにいつものように自分がクリスマスに贈ったクマのヌイグルミを抱きしめてここで寝ているアーサーを起こしたのだ。
それが今、こんな何もない状態になっているなんて…
…っ??…何も…???
そこでギルベルトの視線はベッドの枕許へと釘づけになった。
普段アーサーは部屋を留守にする時は必ずそこにクマを座らせていた。
そう…ギルベルトが作った、ギルベルトを模したクマだ。
親がいない寂しさを埋めるために親の代わりにとヌイグルミをねだった子どもの話を聞いて、自分がいない時には自分の代わりに…と贈ったクマ。
なかなか良いお値段だった正確な時を刻む目覚まし時計も、ノートPCも、文具も、その他ギルベルトがアーサー用にと買いそろえたこの部屋にある物、なにもかも全て置いて行ったのに、ギルベルトのクマだけ何故――?
…っ!!
ギルベルトは一つの可能性に辿りつくと、即踵を返して部屋を飛び出した。
アーサーを構成する性格は大きく分けて二つ。
嫌だと言えない、諦めの良すぎる点。
そして…もう一つは欲しいと言えないこと…。
前者だと思っていた。
仕事だと言われれば不本意だとしても共同生活を送るのを了承せざるを得なかったのだと…。
でも後者だったら?
一緒にいたい…これは仕事だから与えられた物だから望んではいけない、仕事が終わったら返さなければいけないものだけど、一緒にいたい…そう思っていたとしたら?
そうじゃなければ何故一緒にいられない時の代わりにと贈られたギルベルトのクマだけ持って行ったんだ?
捕まえてやらなくては…と、思う。
押しつけでも良い。
前者だったら自分が迷惑がられて突き放されるだけだ。
アーサーが悲しい気持ちのまま街をさすらうより、自分が拒絶されて傷つく方がマシじゃないか。
ギルベルトはマンションの部屋を飛び出して、エレベータを待ち切れずに階段を駆け降りた。
アーサーを降ろしてだいぶたつ気がするが、アーサーだってギルベルトが戻るまで2時間くらいかかると思っているだろうから、そう急いで行動はしていない気がする。
雨はいつのまにか雪に変わっていた。
しかしギルベルトは傘もささずにマンションのエントランスを出て左右を見る。
それらしき人影は見当たらない。
そこで
「ちょ、ここをヌイグルミ抱えたハイティーンくらいの男通らなかったか?」
と、道行く人を片っ端から捕まえて聞いてみるが、自分が有名人だと言う事をすっかり忘れていた。
こんな時間だと言うのに出来る人だかり。
「頼むからっ!!あいつが見つかったらサインでもなんでもしてやるから、今は通してくれっ!!!!」
――どうしたの?
――え?え?マジ?本物のギル?!!
――何の騒ぎ?
――本物だーー!!何、何、撮影?!
――違うんじゃない?誰か探してるって…
――ヌイグルミ?クマの?それ金髪の子?ちょっと可愛い系の
ざわつく中で聞こえる女子校生達の会話。
「それだーーー!!!!そこの女子校生っ!!そいつどこにいたっ?!!!」
普段はそのキャラクタに似合わずファンに対して紳士的なギルベルトだが、今はそんな余裕もない。
強引に群がる面々をかきわけて、その声の主の少女の腕をガシっとつかんだ。
「頼むっ!どこにいたっ?!教えてくれっ!!!」
迫るギルに周りの少女達は黄色い悲鳴。
言われた当人が真っ赤になりながらも
「あ、遊歩道で…金髪にグリーンアイのクマのヌイグルミ抱えた子が…」
と言うのを
「ダンケっ!!」
と遮って、ギルベルトは少女の頭を撫で、ほんの一瞬迷って、
「これ礼と詫びなっ!いきなり掴みかかって悪かったっ!!」
と、愛用の小さな小鳥さんのブローチを胸元から外して少女に握らせて、人ごみを突破し駈けだした。
――アルト…アルト、アルト、アルトっ!!!
大通りから裏道に入り、マンションの裏手の遊歩道へ。
この時間だとさすがに人通りも少なく、まっすぐ続く道の遥か遠く、川沿いに設置された小さなベンチに人影を見つけた瞬間に、猛ダッシュする。
それはまるで絵本のような光景だった。
晴れた日には散歩をする親子連れが休むのにぴったりな背もたれが動物の形をした可愛らしいベンチ。
そこに少し吊り目がちな紅い目をしたグレーのクマのヌイグルミをしっかりと抱きしめた少年のような青年が眠っていた。
濡れてぺしゃんとなった金色の髪にも同色のクルンとカーブを描いた長い睫毛にも透明な雪のかけらが降り注ぎ、街灯の光を反射してキラキラ光っている。
色を失った青白い頬にはかすかに残る白い筋…涙の跡…
マッチ売りの少女?フランダースの犬?あるいは…幸福な王子?
そんな切なさを伴う愛らしさを感じさせる風景にギルベルトは一瞬言葉を失い…しかしすぐハッとした。
「アルトっ!!アルトっ!!!しっかりしろっ!!!!」
肩を揺すると一緒に力なく揺れる身体。
頬を軽く叩いても反応はない。
なのに腕はしっかりとクマを抱きしめたまま…
「っくそっ!!!」
ギルベルトは自分のコートを脱ぐとアーサーをそれで包んで抱きあげ、急いで大通りに出てタクシーを拾う。
そして
「一番近い救急病院までっ!!急いでくれっ!!!」
市内を走るには端から端まで行ったとしても過分なだけの紙幣を運転手に突きつけ、そう叫んだ。
運ばれた病院は当たり前だが通常の診療は終了していて、ところどころに案内のランプがついただけの暗くシン…とした廊下を進んでいると、なんだか現実世界からどこか恐ろしい所に向かっているような気がする。
今までいついかなる時も冷静であったはずの頭の中は真っ白でうまく働かない。
言われるまま機械的に書類を書き、ただ聞かれた事について機械的に答え、担架に乗せられて行くアーサーを見送って、入院手続きを済ませる。
おそらくそれは本能的に自衛しているのだろう。
全てがガラス一枚隔てた向こうの出来事みたいで、現実感がわかない。
そのガラスを割って現実を目の当たりにすれば自分は発狂するんじゃないか…と、それも他人事のように思う。
それでも現実は自衛の窓を強引に開けて入りこんでくる気満々なようだ。
――…肺炎……?
診察が終わって呼ばれた部屋で、医師から説明を受ける。
医師の口から出て来たその聞きなれた病名に少しホッとする。
聞き慣れているだけにひどい病気の気がしなかった。
「じゃあ…大丈夫なんですね…」
と安堵の息を吐きだしたギルベルトに医師は難しい顔で引導をつきつけた。
「いえ…大丈夫じゃありません」
「…は?」
「確かに肺炎というのはよくある病気で、死亡する患者の92%は65歳以上の高齢者ではありますが、では若ければ大丈夫かと言うと必ずしもそういうわけでもないんです」
「…アルトは大丈夫じゃない…と?」
いやいや、ないだろう。
そんなわけはない。
自分が軽々しく物を言い過ぎたせいで少し脅されているんだ…と、泣きそうな気持で思う。
が、その小さな希望を否定する医師の言葉…
アーサーは栄養状態が良くないせいで年相応の体力がなく、病気に対する抵抗力も著しく低下しているとのことだ。
…ああ……と、ギルベルトは納得出来るだけに絶望した。
一緒に暮らし始めてからは少しでも栄養バランスの良い物をと食事にも気をつけていたが、身体が出来る頃にずっとロクな物を食べられなかったアーサーは元の食が細いのもあるのだろうが筋肉もぜい肉も付かなかった。
ギルベルトからすると驚くほど簡単に熱を出したし、よく風邪もひいた。
成長期に必要な栄養を取れなかった身体は、今になって1年くらい栄養に気をつけたところで早々に健康になれるはずもないのだ。
即死ぬとは言わない。
だが楽観視も出来ない。
そう宣告されて、ギルベルトは自分の方が死にたくなった。
何故あの時に様子のおかしいアーサーを1人で部屋に返したのだろうか……
病院の特別室。
今ギルベルトに出来るのは最高の病室と治療を用意してもらえる費用を出す事くらいで…それ以上なにも出来ないのだ。
たとえ目の前でアーサーの病状が悪化して、そのまま息を引き取ってしまうことになっても……
…死にてえ……
目の前で身体にたくさんの管をつけたアーサーを見て、ギルベルトは頭を抱えてうずくまって泣いた。
どうしていいかわからない。
神様というものが目の前に分かる形で現れてくれれば交渉する事も出来るのに…
こざかしいだけの知能しか持ちあわさない自分は今、ただ泣く事しかできないのだ。
数十分後…着信音が鳴った。
フランシスからのメールだ。
『無事お財布ゲットしたよ~。
届けに行ったんだけどお前いないし、もしかして坊ちゃんの容態悪くて病院だったり?
お兄さん行ってあげるから、病院教えて?』
デートのはずなのに切り上げてくれたのか…などと、普段は回る気も全く回らない。
ただ他に何も修飾もつけず、お礼すら言わず、病院の名前だけ打って送信を押す。
それでも駈けつけてくれたフランシスは文句の一つも言わず、ただ、大丈夫だよ、大丈夫だからね?とだけ声をかけてくる。
いつも自分がアーサーにかけていた言葉。
そう思うと涙がまた溢れだしてきた。
翌朝…ギルベルトは撮影がある…が、もうそれもどうでも良いと思った。
行きたくない、行かないと言うギルベルトにフランシスは
「ギルちゃんの大切な坊ちゃんの映画でもあるんでしょ?
ここでギルちゃんがやめちゃったら坊ちゃんの映画もぽしゃっちゃうんだよ?」
と諭され、何かあったら絶対に知らせると約束した上で撮影へ。
奇しくも今日は恋人を失くした主人公が絶望の淵で泣き明かしたあと、仇を道連れに死ぬラストシーンだ。
最後の最後まで…本当に映画はまるで自分を描いたように自分の気持ちに沿う形で進んでいく。
もう…何もかもがどうでもいいのだ…
恋人がいない…それだけでこの世に自分が望むものは何もない。
やるべきことを早く終えて、恋人の元へ行きたい…
そんな主人公の心情が痛いほどわかった。
アーサーが死んだら自分も死のう…この話の主人公のように…
そんな風に思いながら全ての撮影を終えた時、フランシスからのメールが来た。
『撮影終わった?終わったなら急いで病院に来てっ!!!』
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