天使な悪魔 第六章 _2

ギルベルトが、(ああ、これで大丈夫…)と、穏やかな気持ちで最期の時を待っていた時、その最悪な事態は起こった。


――…ギル……?
小さな小さな声。
少し寝ぼけたようなその声に一気に肝が冷える。

襲撃者が銃を向けた先、眠っていたはずのアーサーが目を覚ました。



しまったっ!!とほぞをかむ。
そして
ずきん…ずきんと痛む胸

(頼む…そのまままた眠っちまってくれ……)
そんなギルベルトの切実な祈りも叶わず、アーサーは完全に目を覚ましてしまったらしい。


――え…?…
と小さく呟いて大きな丸い目をさらに大きく見開いて身を起こしかけたのを襲撃者が首元に手をかけて

「動くなっ!」
と乱暴にベッドに押さえつける。


「乱暴にすんなっ!!」
と叫んだギルベルトが恐れたように、見る見る間に血の気を失う顔。
乱れる呼吸。

まずい…発作が……
長引けば長引くほど体力を奪うし、最悪そのまま死んでしまいかねない。


「早くっ!人質チェンジしろっ!
発作起こしてるっ!早くしねえと死んじまうっ!!!」

アーサーにもしもの事があったらなんのために黙って自分の手を撃ち抜いたのかわからない。

…いや、そんな程度の事じゃない。
このまま死なせでもしたら、自分が産まれて生きて来た事自体がなんの意味もないどころか有害な事だった気すらしてくる。

家と病院を往復しながらただ穏やかに平和に生きて来たのだろう優しい命を踏みにじって摘み取ってしまうために生まれて来たというのなら、自分が生きている事自体、罪深すぎて呪う事しかできないじゃないか。


頼むから…助けさせてくれ。
血を吐くようなギルベルトの願いは、しかしながら叶えられなかった。

その眼前で、目を疑うような事が起こったのである。


――ギル…逃げて……

ひゅうひゅうと苦しそうな呼吸の中に紛れる小さな小さな…今にも消え入りそうな声…

どこにそんな力があったのか…
襲撃者の両手を細い手が掴む。

振りほどこうとする襲撃者
だが、力任せに振る襲撃者の腕に振り回されて細く小さな身体がまるで嵐に揺れる小枝のように振り回されるものの、しっかりつかんだその手は離れない。


――…や…めて…くれ……もうやめてくれっ!!!!
駈け寄ろうとするギルベルト。
叫び声と同時に二つの銃弾が発射される。

一つは襲撃者の銃
そしてそれよりわずかに早くギルベルトの後方から撃たれた銃が襲撃者の銃を正確に射抜き、頭に向けられていたその矛先を肩口へと大きく反らせた。

それでもかすかに肩口をかすった弾丸が真っ赤に染める白いシーツ。
銃が完全に反れたところで後方から発射された2発目の弾丸が今度は襲撃者の頭を射抜く。

そこまでがまるでスローモーションのように行われた時、ギルベルトがようやく腕の中に取り戻した愛しい子どもは血の気を失ったまま浅い呼吸を繰り返していた。


「…アル…ト……アルト…」
頭の中が真っ白で言葉が出てこない。

弱々しい呼吸
生命が失われて行くような感触

それが恐ろしくて、生きている熱を確認するように撃ち抜いていない方の手でその柔らかな頬を撫でれば、アーサーはゆっくりと目を開けた。

ぼんやりとしばらく焦点のさだまらない目
息苦しさで少し潤んでいるその綺麗な淡いグリーンの瞳は優しくギルベルトに微笑みかける。

…ギル…今までありがとう……
これで…ようやく……自由に…してあげられる…
これから…は…優しい相手を…みつけて、幸せに……

小さく紡がれる言葉…
ほとんど声にならない声…

本人にとっては祝福の言葉だったのであろうそれは、ギルベルトにとっては耐えがたいほど苦しい呪いの言葉だった。

――…いやだ…いやだ、アルト、嫌だっ!!!!
この子がいなくなる……
自分の側から永遠に……

そんな地獄の業火に焼かれるより辛い中で
この世の全ての希望が潰えた中で
どうやって自分が幸せになれると言うのだ

絶対に何と引き換えても
例え自分の全て、自分の命と引き換えたとしても守りたかった
この世で唯一にして絶対の大切な存在…

それを失って幸せになんかなれるはずがないじゃないか


誰が愛しいこの子にそんな馬鹿な事を思わせたのだろう
自分が?
アーサーが死んだ方がギルベルトが幸せになれるなんてまったくあり得ない馬鹿な事を一体誰が思わせた?!
いやだ、いやだ、いやだ、いやだっ!!!!
泣きながら激しく首を振るギルベルトの目から溢れ散る涙がアーサーの頬を濡らすが、ゆっくりと閉じたままもう開かないその目。

「いやだっ!置いて行くなっ!!置いていかないでくれっ、お願いだからっアルト!!!」
必死に縋るギルベルトの肩を襲撃者の死亡を確認したアントーニョが掴んだ。

「遅れて堪忍な。
ギルちゃん、フランが医者呼んだから」
と、ちらりと担架に目をやって、暗にギルベルトにアーサーを離すように促す。

もう判断力も思考力もない。
ただ恐怖と悔恨で押しつぶされて固まっているギルベルトから、それでもアーサーを引きはがすと、アントーニョは彼を担架に乗せて自らもその傍らに付添う。
茫然と固まるギルベルトにはフランシスが寄りそい、その腕を掴んで立たせるとアントーニョに続いた。

「大丈夫…大丈夫だからね、ギルちゃん」
と、慰めるように慈しむように声をかけ続けるフランシス。
だがその声もギルベルトには届かない。

――…アルト……アル…ト………
壊れたレコーダーのように繰り返すギルベルトに、それでもフランシスは声をかけ続けた。
優しく…宥めるようにずっと声をかけ続けたのだった。


処置室につくとアントーニョが付き添って、ギルベルトは取り残される。
冷静でない…ゆえに邪魔になる
それが理由で、そう言われるとギルベルトもそれでもとは言えない。

死にかけているアーサーを前に泣きわめかないなんて保証はできない。
それは自分でわかりすぎるほどわかる。

そうして待合室で待機しながらも、その意識はひとえに処置室に注がれている。
いっそドアなんて壊せてしまいそうなくらいの勢いで凝視しながらも、理性で自分を律してその場にとどまっていて、隣で自らが打ち抜いた右手の手当てが行われているのにさえ気付かないくらいだ。


そうしてどのくらいの時間がたったのか、処置室のドアが開いた瞬間には驚きと不安でショック死をしそうだった。

治療が終わればドアが開く
そんな事は当たり前のことなのに

しかし覚悟ができていないのだ。
ドアがあけば今の容態を聞かされる。
例えそれが最悪なものだったとしても……

実際…決してにこやかとは言えない表情で出て来たナースが医師呼んでいるから来るようにと告げて来たので、あまり良い報告ではないのだろうと思えば、逃げたくなった。

逃げてもどうなるものではない
そんな事はわかりきっているはずなのに


鉛のように重くなった足を引きずるように処置室へと入った時、ギルベルトは倒れそうになった。

驚くほど大量につけられたチューブ。
それが繋がれた様々な機械を見ただけで、容態の悪さは十分に想像できる。
その上で厳しい顔をした医師の顔
それだけでもう死にたくなった。

――残念ながら…心臓がもう持たないかもしれません。今夜いっぱい持つかどうか……

クラリと視界が揺らぐ。

――…俺の……やってくれ……
反射的に口から出たのはそんな言葉だった。

この子の命を繋ぐためなら何でも出来る
そう、思う。

「…何をですか?」
医師がその意味を取りかねて少し眉を寄せた。

「…心臓……」
それだけ言うとギルベルトはその場に座り込むと床に手をついた。

「なんでもやるっ!
いくら金がかかっても構わねえし、手でも足でも肺でも心臓でも…命全部でもいいっ。
俺の持ってる物なんでもやるから……
頼むからアルトだけは助けてくれっ!!」

ぽつり…と目から零れ落ちた涙が床についた手のひらを濡らしていく。

何でも出来ると思う…
今生で足りないなら魂を悪魔に売ったって良い

こんな風に…こんな風に恐ろしい思いをさせて…痛い思いをさせて…ひどい苦しみの中で死なせるくらいなら、自分が地獄に落ちた方がいい

本気でそう思うが現実は残酷で、医師は少し困ったような顔で

「実際に移植するにしても閣下を死なせるわけには行きませんし、そもそもが手術に耐えうる体力がもう残っていらっしゃらないので……」
と当たり前にわかっていた事実を告げてくる。

そうだ…自分の命についてはどうでも良いとしても、そもそもが手術に耐えられる体力がもうアーサーにはなかったのだ…

「…じゃあ…どうすればいいんだよ……」
床の上についた手のひらをぎゅっと握りしめて喉の奥から絞り出すようにつぶやくギルに、医師はただ
「申し訳ありません…」
とだけ答えた。

つまりは…もう何も出来ないと言う事…なのだ。




ギルベルトはその後、身体中にたくさんの管をつけられて酸素吸入器の下で苦しげな呼吸を繰り返すアーサーに一晩付き添った。

奇跡が起きてくれるように祈りながら…
これまでになく真剣に祈りながら…

だが奇跡は起きず…朝日が部屋を照らすのを待つことなく、アーサーは呼吸を止めた。



この時に鳴り響いた尖った警告音をギルベルトは一生忘れる事はないだろう。

それは絶望の鐘…
ギルベルトにとっては世界の終末に鳴らされる7つのラッパにも等しいものだった。

握り締めた小さな手が力を失った瞬間…気が狂ったように絶叫し、置いていかないでくれと哀願したが、当然聞き入れられる事はなく、声も涙も枯れ果てるまで泣き叫んだ。

幼い頃から総帥の跡取りとして自分を律するように育てられたため、こんなに感情を表に出した事は今まで一度としてなかったが、出しても出しても、どれだけ嘆き叫んでも、悲しみは尽きない。

絶望に正しく溺れながら、その中でそれが唯一の救いとばかりにアーサーの亡骸を抱きしめた。

それでも…以前なら慰めてくれたその小さな身体は、今はもうギルベルトの悲しみに応えて癒してくれる事はなく、それが悲しくて辛くてギルベルトはまた泣き叫んだ。


体力が尽きるまでそうしていて、静かになったのはその日の夜…

その静けさを逆に心配したフランシスは、アーサーを抱きしめたまま茫然自失の体でうつろに虚空を見つめているギルベルトを見て、声もかけられずに怯えたように立ちすくむ。

一方でアントーニョの方はそんな空気を読む事なく、アーサーの横たわっているベッドとギルベルトが腰をかけている椅子の隣の小さなテーブルに持って来た食事のトレイを置いた。


「泣くのも悲しむのもええけど、食べるだけは食べとき。
それでも俺らは生きていかなあかんのやから」

カタリと置かれたトレイとかけられた言葉に、ギルベルトは虚ろ目をテーブルの上に向ける。
そしてぴたりと止まる視線。

血走った眼…
ギルベルトが動く。
包帯が巻かれていない左手がトレイに伸びて食事に添えられたナイフを取り、それを己自身に向けた。

悲鳴もあげられずに息を飲むフランシス。
しかしながら伊達に特殊部隊のエースと言われてはいない。
アントーニョはすでにギルベルトがトレイに向けた視線を見た瞬間に動きだしていた。
そして首元に伸びるギルベルトの手を掴んでナイフを取りあげ、押さえつける。


――何しとるん?ええ加減にせいや…

普段のテンションの高さなど想像もつかないほど低い声でそう言うアントーニョと対照的に、いつもの淡々とした冷静さなど嘘のように声高に

――なんで俺様生きてんだよっ!!守るべき相手も守れず生きてる意味なんかねえだろっ!!
と叫ぶギルベルト。

――…死なせてくれよ…頼むから……
と急に弱々しくなって続く言葉。

しかし当然悪友達にはそれは受け入れられず、その後は手で食べられるモノが用意されたが、食事どころか水の一滴すらギルベルトは口にしようとしない。

オロオロとそれを見守るフランシス。
アントーニョは何やら準備を進めている。



そして…アーサーが時を止めて丸一日たった朝…薄暗く空気が止まった部屋のカーテンをアントーニョはさ~っと引いた。

朝の陽ざしの眩しさに目を細めるフランシスと、アーサーを抱きしめたまま微動だにしないギルベルト。

その双方にアントーニョは
「今日の午後な、葬式すんで」
と、淡々と宣言した。


「葬式……」

複雑な表情でフランシスが振り返ると、ギルベルトは絶望に打ちひしがれたような表情でアーサーを抱きしめたまま首を横に振った。


「イヤイヤやないで。
このまんま言うわけにもいかへんやろ。」

はぁーと少し俯いてため息をつくアントーニョ。
昨日から色々動いていたのはこのためらしい。


「アルトを…土に埋めろっていうのかっ!」
「せやかて弔ってももらえへんかったらアーティかて可哀想やん」

感情的に叫ぶギルベルトとは対照的にアントーニョは飽くまで淡々としている。
いつもとは真逆な2人の間をフランシスは口を挟む事が出来ずにオロオロと視線をさまよわせた。

そして互いに視線を向けるアントーニョとギルベルト。

「…お前は……なんでそんな事言えるんだ…
アルトを冷たい土の下に埋めるなんて……1人ぼっちにさせるなんて……」
「ギルちゃん、自分死んだら腐ってく様を晒されたいん?
親分はごめんや」
唇を震わせるギルベルトにアントーニョが少し苛々してきたような様子で答える。


「…腐って…………」

その直接的な表現はギルベルトには衝撃だったらしい。
蒼褪めた顔から完全に血の気が引いた。


言葉に詰まるギルベルトにアントーニョはさらに追い打ちをかける。

「それとも…はく製にでもして飾っておきたいん?
その方が可哀想やと思うで?
死体晒し続けて何が楽しいん?
離れたくない言うのは生きてる奴のエゴや。
死んだあとくらい安らかに眠らせてやるのが思いやりっちゅうもんやで」

正論に打ちのめされるギルベルト。
充血して真っ赤に染まった目を大きく見開いて、今にも死んでしまいそうに見えた。
少なくともずっと寄りそっていたもう1人の悪友の目には…


「花をいっぱい入れてやろうっ!アーサーの好きな薔薇とかさっ!
あと…そう、ヌイグルミ!いっぱいあったじゃないっ!
この子好きだったからさ。
大好きな花とヌイグルミいっぱいに囲まれたらきっと寂しくないよっ」

たまりかねてフランシスが間に入るように叫ぶように言った。


――ね?入るだけ全部入れてやろうね、いっぱいあったじゃない?
と、今にも気を失いそうに血の気を失ったギルベルトをなだめるように、そう語りかける。

「…ヌイグルミ……」
「うん、そう、ヌイグルミ。
そうだ、いっつも抱きしめてたのあったよね、えっとなんか名前つけてた……」
「…ギー…君」
「ああ、そうだった、ギー君ね。
彼もいれてやろうね」

柔らかにそう言うフランシスにギルベルトは堰を切ったようにまた泣きだした。

――…守って…やりたかったんだ……
――うん。
――…でも…死なせた……
――うん、結果的にはね?でも幸せだったんじゃないかなぁ…
――…危険な目…合わせただけで……不幸にした……
――んーでもさ、幸せだったから…幸せにしてくれたギルちゃん守ろうとしたんでしょ?
――…要らな…い…アルト…守れたら……それで良かった……俺の命なんて…要らな…かっ…た……
――困ったね。きっと坊ちゃんも同じ事思っちゃったんだろうねぇ。

泣きながら訴えるギルベルトの言葉にフランシスは少し困ったように微笑んで根気よく答え続ける。

その様子を見てアントーニョは肩をすくめ
「ほな、そう言う事で準備してくるわ」
と、そっと部屋を出て行った。




そして午後…身内もいないので参列者はたった3人の静かな密葬…。

アーサーの小さな遺体を入れるには随分と大きめの棺桶を用意したのは、朝がたのギルベルトとフランシスのやりとりを聞いていたアントーニョだ。

下手をすると遺体自体よりもスペースを取っている真っ白な薔薇の花とヌイグルミ達。
生前と同じようにグルリとヌイグルミに囲まれて横たわるアーサーはまるで眠っているように見える。

最期の別れを…と促されて、ギルベルトは胸元で組み合わされたアーサーの手をそっと外し、その腕の中にお気に入りだったグレーの毛並みのクマを持たせてやった。

自分と同じ色合いの毛並みと瞳。
それを見たら堪らない気分になった。

「そろそろ…閉めんで」
とのアントーニョの声に、ギルベルトはそのクマごとアーサーに覆いかぶさった。

「いやだっ!!俺も入るっ!!
クマの代わりに俺が入るっ!!!!」

そうだ。
同じ色合い。

名前だってたぶん自分からとったに違いないクマはこの先土の下でもずっとアーサーと一緒で見守っていけるのだ。
ヌイグルミでさえ見守る事くらいは出来るのである。

「俺も入るっ!一緒にいるっ!!
……頼むから……引き離さないでくれ……
俺様の手の届かないところにやらないでくれ……頼むから……」

可愛かった
好きだった

…ただ、幸せにしたかった

でもそれが叶わない望みだったなら、せめて最後まで守らせてくれ
一緒に居させてくれ

そう願う事のどこが悪いのかギルベルトにはわからなかった。

強く思って泣き叫びながら訴えて…次の瞬間……
ギルベルトの意識は深い闇に沈みこんでいった。





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