天使な悪魔 第二章 _2

ギルベルトには訛りがあった。
それはアーサーの実母と同じ中央地域でも北部の訛り。

それを知ったのは出会ったその日。
ギルベルトは自分の名を名乗ってギルと呼んでくれと言い…そしてアーサーの名前を聞いて
――アーサー…アルトか…
と呟いた。



アーサーと言うのは中央地帯でも中心に位置する中央部でよく呼ばれる呼び方…つまりはいわゆる標準語。
北部ではアルトと呼ぶことが多く、北部出身の母もそう呼んでいた。
アーサーにとっては懐かしい響きだ。

母が亡くなってからその呼び方をする者はいなくなっていたが、ギルベルトにそう呼んで良いか?と問われて、断る理由もないから了承した。
いや、違うか。
誰かに…いや、ギルベルトに特別な呼び方をして欲しかったのだと思う。

アーサー自身は中央部の出身だったがギルベルトは北部の出身らしく、彼が語る老人とのやりとりの端々に、北部出身の母がよく話していたような北部特有の慣習やら特色やらが見え隠れしていて、アーサーがそんな母と同じ地域で育った彼にすっかり気を許してしまうまでには、そう時間はかからなかった。

アルト…アルト…アルト………

出会って1週間、ギルベルトは仕事で戻ってしまい彼とのやり取りは電話になったので、余計に自分を呼ぶその声が耳に残る。

一見きつそうなその顔立ちに似合わず、彼がアーサーを呼ぶ声は低いが優しく、アーサーの願望がそう思わせるのか、ともすると甘さを含んでいた。

ギルベルトにその特別な呼び方で名前を呼ばれると、心の奥がほんわりと温かく、何かくすぐったいような恥ずかしいような気持ちになる。
そんな感情をなんと呼ぶのか、アーサーは知らない。



そんな中、ギルベルトが帰ってしまって早3週間以上が過ぎた。
手術の1週間前にはこちらに来てくれる予定だったので、本当だったら今頃電話越しではなく直にあの声を聞いていたはずなのだが、3日ばかり前、携帯を覗くと珍しくメール。

内容もただ、
『悪い。今仕事ですげえ遠くに来ちまってて、行けそうにねえ』
と、たったそれだけ。

いつもいつも細やかなギルベルトにしてはそっけないそれ。
再会を楽しみにしていたので悲しかったしがっかりもしたが、その文面のそっけなさが、逆に今の彼の忙しさをあらわしている気がした。

ほぅ…とメールを閉じ、肩を落とす。
仕方ない…。
もともとは本当にたまたま居合わせた赤の他人だ。
なのにギルベルトはありえないほど色々をアーサーに与えてくれている。

今こうしてホワイトアースの中でも1,2位を争うくらいに大きく医療設備の整った病院の…しかも特別室などというすごい場所で過ごしていられるのも、高度な治療を受けられるのも、それこそ職員やナースは金額は教えてはくれないが、一般人が一生働いても払いきれないくらい高額な手術を受けられるのも、全てはギルベルトがそうやっておそらくとてつもなく大変なのであろう仕事をして医療費を払ってくれているおかげだ。

本当に仕方のないことなのだ…と悲しい気持ち寂しい気持ちを飲み込んで、アーサーは再度メーラーを開いて、
『ナースも良くしてくれるし、体調も良いから大丈夫。俺の事は気にせず仕事頑張ってくれ。無理しすぎない程度に』
と、返事を返して、今度こそ携帯を切ってサイドテーブルの上に置いた。

まあ…寂しいというだけで無理は言えない。
手術は普通に終わるのだろうし、術後でもギルベルトにはいくらでも会える。

…会いに来てもらえるなら……と、そこでふとこのところずっと心の奥でくすぶっていた不安が脳裏をよぎった。

そう、ギルベルトの方はいつでもアーサーに会いにこれるが、アーサーはギルベルトが何者なのかも実は知らない。

彼が突然にアーサー以外の誰かに興味を移してそちらに時間を使いたくなったとしたら、彼を追う術はアーサーにはないのだ。
いや、例え彼の所在が明らかになったとしても、そうなった時に追う権利もない。
自分達の関係の全てはギルベルトのきまぐれな善意から始まっているのだから…。

そう考えると胸の奥がぎゅっと締め付けられるような気分になる。
悲しい…寂しい…
だからこそ会いたいのだ。
まだ飽きられていないうちに少しでも会いたい。

そう思えば大抵は体につけられた管からつながる装置がピーピー鳴って、ナースや医師が飛んでくる。
あまり悲観的になるのは人騒がせで宜しくない。
そうは思うのだが、そんな不安が消えるのはきっとギルベルトがすぐそばにいて、自分にまだ飽きていないと実感できる時だけなのだ。
自分でもどうしようもない感情をもてあましながら、アーサーは今日も点滴から入れられた睡眠導入効果のある薬の力で眠りにつく。



こうして手術まであと3日という日の夕方のこと、ずっと連絡のなかったギルベルトから電話が入った。

今仕事が終わって大急ぎで戻っているところで、明日にはこちらに来てくれると言う。
何度も何度も申し訳なさそうに謝って、そしてアーサーの体調を気遣ってくれる。
ああ…好きだ…嬉しい…
そう思えばこのところあまり宜しいとは言えなかった体調が一気に回復してきた気がした。

出先からの移動中だったらしく、そろそろ着くからと切れる電話。

…もうすぐ会えるのか……
と、切れてからも電話をぎゅっと握りしめて久々に楽しい気分でいたが、そこで絶対に見なければいけないので見ているテレビ番組に目をやって、アーサーは顔面蒼白になった。

それは西ライン軍の息のかかったキャスターが朝昼晩担当しているニュース番組で、普段は銀色のタイピンが金色のタイピンになっていたら草全員に連絡事項がある。

このところ体調があまり宜しくなかったので、ここ2回ほどニュースを見ていなかったが、その間に何かがあったらしい。
ニュースキャスターの胸元に光る金色のタイピンを認めた時、アーサーは慌てて自分が元々持っていた古い携帯で草達に情報を流している西ライン軍の極秘のサイトにアクセスした。

そして知る。
今日、まさにあと3分でこの病院に事故を装って西ライン軍の輸送機が墜落するとの知らせを。

何故とかもう読んでいる暇もなく、アーサーは慌てて辺りを見回した。
長らく寝たきりに近い状態だった体ではあと3分で病院から脱出する事は不可能だ。

――万が一…万が一だけどな…

と、瞬時に思い浮かんだのはギルベルトの言葉。
ここは特別室だからセキュリティは万全のはずでも金持ちを狙った無頼の輩の襲撃が絶対にないとは限らない。
特に昨今はテロの可能性とかもある。
だから危ないと思った時はそこに逃げ込めるよう、老人を入院させていた時に小さな携帯用シェルターを用意させていて、それは退院後間もなくアーサーを拾ったのでまだ設置したままだと言っていた。

ベッドの下…と、アーサーはベッドを飛び降りて、説明された通りにボタンを押してみると、確かに人が1人入り込めるようなスペースがある。
そこに入り込むと再度ボタンでドアを閉めた。

飽くまで銃器を持った人間達から身を隠す程度のものだと思うが、どうなのだろうか…。
不安で心臓がきゅうっと締め付けられる。
しかしそれを苦しいと思う間もなく、ものすごい音が近づいてきた。
それはもう、色々考える事もできないほどの恐怖だ。

怖い…怖い…ギル…

死ぬのは怖い。
でもその時に一人ぼっちなのはもっと怖い。

せめてもう一度…もう一度で良いから会いたかった……

泣きながらそう思い、でも衝撃や炎、そんな物よりも先に、死はアーサー自身の体の中から広がってきたようだ。
息が苦しくて胸が痛い。
パクパクと空気を取り込もうとするも、まったく入って来てくれない。

1人はやだ…寂しい…ギル……

そう思ったのを最後にアーサーの意識は暗い中におちていった。






ふわり…と心地よい感触が全身を包む。

…ると…アルト……

聞きたかった声…呼んで欲しかった名前……
うっすらと重い瞼を開くと、そこにはずっと会いたかった相手…
夢…夢なんだな…と思う。
だってギルの目が紅い…泣きすぎて…とかじゃなく、青かったはずの瞳が紅いのだから、これは混乱した自分の夢なのだろう。

もしくは神様が自分を憐れんで見せてくれた優しい夢…

…会いたかった……嬉しい……

普段は伝えるのが苦手な素直な気持ちがするりと口をついて出る。
嬉しくて嬉しくて…幸せすぎる中、アーサーの意識は今度はふんわりと失われて行った。




死を前にした幸せな幸せな夢……アーサーはそう思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
現実は小説より奇なり…そう言ったのは誰だったのか……

次にアーサーが目を覚ました時には、とんでもなくあり得ない現実が待っていた。


そこは薄暗いアーサーの自宅の部屋ではなく、無機質すぎる元々通っていた病院のベッドでもなく、そして、つい先頃までいたホテルのように豪華な病院の特別室でもなかった。

――いちおう男の子なんやから、これはないんちゃう?
――えー、だってギルちゃんて男OKとは思ってもみなかったし?女の子だと思ったんだもん。
――だ~か~ら~!!そういうんじゃねえって言ってるだろっ!!
――何言うとるん?自分、まぎれもなくそういう相手前にした態度やったで?別にすけべせえへんでも特別っちゅうのは特別やで?
――えーっ!まだ何もしてないのっ?!ずいぶん長期間通ってなかったっ?!
――だ~か~ら~~!!最初の頃はじいさんだと……
――あー、もうそういうホラはええわ。
――ホラじゃねえっ!!
――まあ、あれやん?この子病気やさかい、それ良くなる前にやったら死んでまうやん。
――ああ、そっか、そうだよね。でもさ、可愛い子だよねっ。まゆげ整えてあげれば女の子って言ってもいけない?
――おかしな真似したら…っっ
――せえへんよ~。フランがしそうになったら親分がちょんぎったるから安心し?
――ちょっ!!ちょんぎるって何をっ?!トーニョ、お前怖いよっ!!!
――せやかてギルちゃんの特別やで?遊びで手ぇ出したらあかんやん。
――トーニョいつからお兄さんよりギルちゃん優先になったの?
――ギルちゃんがっちゅうより、この子ちっちゃいし?ちっちゃい子は正義やん。フランみたいな変態よりはギルちゃんの方がちゃんとしてそうやし…
――ひどっ!トーニョひどっ!!お兄さんはただ少し他人よりも愛に溢れてるだけで……

実に賑やか…いや、騒々しいレベルだ。
他の2人は知らない。
だがギルベルトに取って親しい相手らしい。
ずいぶんと打ち解けている感じがする。

少し寂しい…が、まあそれより現状を把握する事が先だ。

おそるおそる目を開くと見知らぬ部屋。
病室ではない。
少なくともアーサーはこれを病室とは認めない。

何しろ一面フリルとレースの世界だ。
幾重にも重なったレースで覆われた天街付きのベッドに横たわるなんて日が自分の人生の中で来るなんて思ってもみなかった。

無造作に横に置かれているクッションも淡いグリーンのレースのフリフリ。
枕元には可愛らしいクマのぬいぐるみまである。

不本意…非常に不本意だが、秘かに幸せだ。
実はアーサーは可愛いモノ綺麗なモノが大好きなのだ。

何やら言い争っているギルベルト達3人を尻目に、こっそりと枕元に座ったクマに手を伸ばし、抱き締めてみる。
ふわふわとした…しかししっかりとした触感。
思わず顔をうずめればかすかに香る花の香り。

うっとりとその感触に酔っていたら、いつのまにやら静かになった3人に揃いも揃って凝視されていて硬直した。

「アルトっ!気付いたのかっ!!気分はっ?!!」
と、真っ先に駆け寄ってきたのはギルベルト…だと思ったのだが、何かが違う……

目…そうだ、目だ。
目が紅い。
ギルベルトは青い目をしていたはずだ…。

「お前…誰だ…?」
不安になってクマをぎゅっと抱きしめたままそう言うと、ギルベルトは凍りついたような表情で硬直した。

ギルベルトのふりをした誰かが自分を騙そうとしている?何故?
と、その反応にバレないと思っていたものがバレて動揺しているのかと余計に警戒心が増す。

言葉もなく硬直したままのギルベルトの後ろからは、人の良さそうな黒髪の男が顔を覗かせた。
本当に正しく人懐っこさを前面に出したその男。
硬直するギルベルトの肩をポン!と軽く叩きながら通り過ぎると、ベッドの横に膝まづいて、くりっくりの垂れ目がちな目でアーサーの顔を覗き込んでくる。

そしてゆっくり、子どもに言い聞かせるような口調で言った。

「ここは東ライン軍の基地内や。
俺はアントーニョっちゅう特殊実働部隊の人間で、ギルちゃんはギルベルト・バイルシュミットっちゅう、軍の中でもめっちゃ偉い軍師で総帥の兄ちゃんや。
怪しいもんちゃうから安心してええよ。
自分の入院しとった病院に事故で飛行機が墜落してん。
で、俺らが駆け付けた時には自分いったん呼吸も心臓も止まってもうててんけどな、蘇生してそのまま基地に運び込んで、意識戻るまで2日や。
ほんでな、もしかしたら体弱りすぎて色々記憶飛んでもうてる可能性もあるかと思うから、確認させたってな?
自分…名前言える?」

特殊実働部隊…ということは、ようは最前線で戦う人間の中でもエリートなのだろうが、全く威圧感もなく、怖くない。
軍人というよりは近所のお兄さんと言った風な雰囲気で、他人を緊張させない男だ。

そう、その雰囲気に流されてついつい普通に最後まで聞いてしまって、その言葉を脳内で反復してアーサーは蒼褪めた。

知っている…聞いた事がある…
ギルベルト・バイルシュミット…東ライン軍の紅い悪魔……史上最凶の策士……

何故?と、脳内で色々がグルグル回った。
確かに自分は西ライン軍のスパイ…草だ。
でも下っ端中の下っ端で、そんなすごい相手に目をつけられるような立場では到底ないはずである。

「…覚えてへん?」
にっこり微笑む男。
覚えてる…けど、自分の身元を話すうちボロが出るよりは、全部覚えてないで済ませてしまうほうが安全なんじゃないだろうか…

そんな事を考えて、バレたらどうしようかと思いつつも
「…わ…かんな……い……」
と泣きながら首を横に振ると、男はポンポンと安心させるようにアーサーの頭を軽く叩いた。

「泣かんでええよ。大丈夫。
親分現場出とるからそういう人間もよく見とるけど、多少記憶飛んでも普通に食べて飲んで寝れれば生きていくのに困らへんよ。
それに自分の場合は自分が自分の事覚えてへんでも、ギルちゃんがちゃんと覚えとるから」
と、そこまで言うと、男は立ち上がってギルベルトに駆け寄った。

(…心肺停止しとったし…もしかしたら記憶戻らへんかもしれへんわ。
ギルちゃんもショックやろうけど一番動揺しとるの本人やで?上手い事言うたり。
いつもみたいに照れ隠しの嘘はあかんで?不安にさせるさかい)

小声でささやかれたそれは、しかしながら耳の良いアーサーには聞こえている。
だがそれは聞こえないふりをした方が良いのだろう。

アーサーがただただクマを強く抱きしめてそちらを凝視していると、男とアーサーを交互に見ていたギルベルトは、意を決したようにこちらに近寄って来た。

どこか泣きそうなその目は、最初に会った日に怯えたアーサーと対峙したあの時の目とよく似ている。
色こそあの頃と違って真っ赤だが、その視線と空気は確かにアーサーが知るギルベルトのそれだった。

「ごめん…ごめんな……」
そっとアーサーの髪を撫でる手の感触。
それで完全に確信する。
これは確かにギルベルトだ。

「俺様のせいだ…。本当は俺様を狙って事故に見せかけて輸送機を墜落させたんだ。
悪い。巻き込んでごめんな。
巻き込まねえように気をつけてはいたんだが、無理だったみてえだ。
でもこれからは絶対に守るから。アルトの事は全部俺様が責任持つし、絶対に守る。
何があってもどんな犠牲を払っても守るからな」

横たわるアーサーの手を握りしめるアーサーより少し大きくて固い手が震え、押しあてている顔は涙で濡れていた。

演技ではないだろう。
ギルベルトは一般人のアーサーを自分が巻き込んでしまったと思っている。

まあ…アーサー自身に輸送機一機分の価値などありはしないのだから、巻き添えを食ったのは確かなのだろうが、問題は一般人…という誤解の方だ。

軍事訓練を受けてない草とは言え、敵軍の息のかかったスパイもどきであることがバレたらさすがにまずい。
これは絶対に言えない。
幸いにして思い切り誤解してくれているようだし、それに乗るしかない。
そういう意味では覚えていないと言う設定は便利だ。
全てそれで乗り切れる。

こうしてアーサーは全てに目をつぶり、覚えていないで通す事に決めた。
そうしてこの先どうなるかなど、全く考えることなどなく、実に安易に…
それが自分の人生を激動のモノにするとも知らずに……



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