アーサーが住む中央ライン地域には手厚い医療制度がある。
最低限の活動をするための医療費は全て無料。
そしてその恩恵を受けなければならない病をアーサーは患っている。
本来なら無い方が良いそれはしかし、ある意味アーサーの命綱であった。
まだアーサーが生まれる前、西ライン軍の父はこの中立である中央ライン地域に来てアーサーの母に出会って、まあ無責任に愛をかわしてアーサーが生まれた。
観光地での一時の戯れのつもりだった父はそれでなくとも自分で責任を取る…などという気はさらさらなく、さらに子どもが病気を持って生まれたため余計に面倒に思ったのか、生まれて一度見にきたきり来なくなったという。
しかし生きにくい身体を持って生まれた子どもに野垂れ死なれても寝ざめが悪かったのだろう。
自軍に一つだけ手続きをしてくれた。
草登録である。
西ライン軍では中央地域にたくさんの草と呼ばれる人種を作っている。
簡単に言えば普段は普通の暮らしをし、何もなければそのまま一般人として生き、そのまま死んでいく。
が、例えば誰かを探る必要が出来た時、取り入るチャンスが出来た時は、動いて任務を果たすのだ。
特別な訓練はあえてしない。
意志だけは西ライン軍にあるものの軍人らしい訓練をされていない、どこをどう割っても一般人、それが草の価値なのだ。
一度見破られてしまえば二度とは使えないし登録も抹消される、生涯に一度きりの来るか来ないかわからない任務を待つ者、それが草である。
中央ライン地帯で重い病気を患って生まれ育っている者…それは草としてはとても適したスペックと言える。
まさかそんな者が軍の関係者だとは、よもや思うまい。
こうして皮肉なことに、父親に捨てられる決定打となった病がアーサーを草として登録承認させ、アーサーには生きて行くために最低限の生活費が与えられていた。
それは表向きは事故で亡くなった父親の遺産と言う事になっていて、12歳で母が亡くなるまでは母子の、そして今はアーサーの生活を支えている。
いくら医療費がでたところで衣食住がなければ死ぬしかないのだ。
全く皮肉な人生である。
それでも生活は楽なわけではない。
医療費が無料と言っても医療地域の中で一番安い病院で最低限死なない程度に…なので、喘息も心臓も、発作が起こった時の最低限の薬が配布されるのみ。
しかもそれをもらうために長い距離をバスに揺られて医療地域まで行く費用は自腹だ。
草としての給与がなければ死んでいる。
バス停から一番遠い病院。
その道を歩いて行く途中にある高額な医療費が出せる人々の通う病院からは自家用車やハイヤーなど個人で用意した乗り物が行き来している。
春先や秋口は体調が悪くない限り歩くのも悪くはないのだが、こうして目眩がするほど暑い時期は、涼しい病院内からそうやって涼しい車で移動して、おそらく涼しい建物内にすぐ入る事が出来るのであろう人々が心底羨ましかった。
本当に暑い…。
汗をぬぐいながら貰ったばかりの薬の入ったカバンを手にバス停を目指す。
遠くに見えるバス停にはすでにバスが停車して、人々が乗車を始めている。
急がなければ炎天下の中1時間は待つ事になる。
そう思えば早まる足。
間に合わないかも…と思うと、普通に歩いていたのが早足、早足が自然と駆け足になる。
それでなくともフラフラしているのにそれがまずかったらしい。
クラリと来て立てなくなった。
息が苦しい。
呼吸が出来ない。
まずい…これはまずい……
さらに悪い事に近くに誰かの気配があって、鞄が奪われた。
ああ…全財産が…大事な薬が……
そう思うモノの、相手を視認する事すらもう出来ない。
そうしてアーサーの意識はいったんそこで完全に途切れたのだった。
次にアーサーが気がついたのは、驚くほど快適な空間。
どうやら横たわっているベッドはありえないほどふかふかで良い匂いがするし、室内だって暑くもなく寒くもなく快適だ。
呼吸も楽になり、胸だって痛くない。
不思議に思って目をあけると、淡いピンクのナース服を着た見た事もないほど綺麗な看護婦が、アーサーに気づいてにっこりと優しい笑みを向けてくれた。
ああ、ここは天国か?と一瞬思うが、天使ではなくナースなあたりで、おそらく病院なのだろう。
…アーサーが今まで知っていた病院とは随分とランクが違うようではあるが……
「気がついたのね」
と歩み寄ってくるナース。
「気分はどうかしら?苦しいところはない?」
と、優しい様子できいてきてくれる。
「…ここ…は?何故ここに?」
点滴や医療装置を見る限り病院なのだろう。
しかしアーサーの知る病室とは何もかもが違っている。
まるでパンフレットで見る高級なホテルの客室のような雰囲気で、実際今いる部屋とは別に応接室のような続き部屋まであるようだ。
落ち付かない様子でキョロキョロと辺りを見回していると、ナースは優しく微笑んで
「実はね、つい最近までこちらにいらした患者さんの縁者さんが、あなたが道に倒れているのを見つけて運んで下さったのよ。」
と説明してくれる。
ああ、もしかしてあの時バッグを取ったのは、身元を調べるためだったのか…と、ホッとしたのも束の間、アーサーは蒼くなった。
どう考えてもここは最高級のレベルの病院の最高級のレベルの病室だ。
一泊分でいくらするんだろうか…
下手をすると一カ月の生活費でも足りないかもしれない。
一気に顔色をなくしたアーサーに、看護婦が
「どうしたの?気分悪い?」
と、顔を覗き込んでくるが、もう動揺しすぎて涙目だ。
「…あの……」
「はい?」
「ここの…費用って……」
それで察してくれたようだ。
看護婦は、大丈夫よ、と、笑ってアーサーの肩をブランケットの上からポンポンと軽く叩く。
そしてなんと、
「あなたを運んで下さった方ね、すごい富豪さんなの。
前に入院してたその方の知り合いの方もこのお部屋に泊まってらしてね、お年で亡くなったんだけど、その方の諸々の手続きを終えての帰りにあなたを見つけて、これも縁だと言う事で、ここに運ばれたのよ。
もちろん費用は入院費から治療費、それからこれから必要になる手術費用まで全部出して下さったの」
と、とてつもない話をするではないか。
手術?え?え?何の??
「あの…」
「はい?」
「手術って……」
「ああ、心臓のよ?大丈夫、今のうちならまず成功するとお医者様もおっしゃってるし」
「いや、じゃなくてっ!だってそれってすごいかかるんじゃ?」
「お金のこと?」
「です」
「大丈夫、さっきも言ったように…」
と、看護婦が言いかけた瞬間ノックの音が聞こえて、彼女はパタパタとそちらへ走っていった。
少しドアを開いて何か廊下の向こうとやりとりしている声が聞こえる。
意外に若い男の声。
医師か職員だろうか…。
そう思っていると、また看護婦がパタパタと戻ってきた。
少し紅潮したこころもち嬉しそうな顔で…。
(…人気のあるドクターか何かなのか……)
などと呑気な予想をしていたアーサーに告げられたのは、なんと先ほどの話にでてきた富豪の来訪で、ひどく驚きも慌てもしたものの、
「体調がすぐれないようならまた出直すとおっしゃってるけど…」
と言われても、状況を考えればそんな失礼な事できるはずもない。
通してもらうように頼むと、看護婦の案内で入ってきたのは意外にも息を飲むくらい完璧に整った顔の若い男だった。
「あ~、いいっ。そのまま起きるな」
とにかく焦った。
てっきり現役から引退して悠々自適の老紳士の道楽だと思っていたら、おそらくまだ20代くらいの青年だったのだから。
しかも本当に顔のパーツもそれが配置されているバランスも美しく整うようにと計算し尽くされたような、しかし現実の空間にいる人間としては整い過ぎた感じのするくらいの顔立ちで、それゆえに今ひとつ人間味が感じられないと言うか、不完全な者が近寄ってはいけないようなオーラーがある。
簡単に言うと整い過ぎていて温かみを感じない。
今のアーサーの状況を考えると失礼極まりない感想ではあるのだが……。
だから失礼があってはいけないとまず反射的に思い、寝間着のままダランと横たわったまま対峙している自分が許されない気がした。
寝間着はもうどうしようもないとして、せめてきちんと立つか、それが無理なら椅子に座った体勢でお礼を…と思ったのだが、それを制したのは青年だった。
ひどく怒ったような感じでかなり強く制されてアーサーがもうパニックを起こして横たわったまま硬直していると、青年はとたんに綺麗な形の眉を八の字にして心底困ったような…どこか泣きそうな顔をする。
「…悪い…。ごめんな、俺様なんか相手を緊張させる人間みたいで…。
少し話と説明をと思ったんだけど、やっぱあれだ、ナースに頼んどくわ。
一つだけ、金銭的な事は全部俺様が責任持って面倒みるから気にしないで良い。
入院関係のものじゃなくても何か欲しいモンあったらナースに頼んで用意してもらってくれ。」
目を見張るようなイケメンのどこか情けなさそうな困ったような笑みになんだか急に親しみを覚えて、アーサーは慌てて手を伸ばしてその上着の裾を掴んで引きとめた。
すると男は目を丸くして、それから浮かべた微笑みはずいぶんと優しいものだった。
「…なんだ?なんかあるか?」
と、少し身をかがめると、切れ長のブルーの目がアーサーの顔を覗き込んでくる。
まるで小さな子どもを見るような柔らかいまなざし。
これが従来の男の姿なのだろう。
それはそうだ。
優しい人間でなければ見ず知らずの人間にここまでしてくれるわけがない。
いきなり怯えて悪いことをしたと思う。
しかし
「礼…言ってないから…」
と、それでも別に男が…というわけじゃなくて、知らない人間に慣れなくて上手く言葉が出ない。
すると、口ごもるアーサーの頭を男は軽く撫でて言った。
「いや…俺様こそ勝手に転院させて悪かったな。
ずっと入院してた親代わりみてえなじいさんが死んじまってな。
まあ、老衰なんだろうけど…。
ちょっとばかし落ち込んでて、そんな時にお前みつけたからさ、助けたくなっちまった。
だから俺様の自己満足なんだ。
気ぃ使わせて悪い。」
笑っているけど泣いているように見えた。
実際は涙なんて出てはいないのだけど……。
「じいさんか何かの道楽だと思ったんだ…」
何かを言わなければ…と思って出た言葉はあまり上手い会話とは言えないが、男は笑ってくれた。
「なんだ、そりゃ」
と楽しそうな反応がかえって来てホッとする。
「…看護婦さんが助けてくれた相手が富豪だって言ってたから…。
なんかじいさんだと勝手に思った。」
「ああ、なるほどな」
「それで…若かったからびっくりしただけなんだ…。ごめん」
「いや、確かにそうだよな」
と、それからはスルスルと言葉が出て来た。
お礼を言って名前を聞いて…もっともギルベルトとだけで名字は教えてくれなかったが
「ギルって呼んでくれ。親しい奴は…じいさんもそう呼んでたし」
と言われれば、別に拒絶されているようにも思えず、アーサーは了承した。
こうして母親が亡くなって以来ひさびさに医療関係者以外と知り合った。
ギルベルト、ギルはそれから数日は毎日通ってくれて、しかし仕事が忙しいのだろう。
1カ月後の手術の時にはまた来るから、それまで…と、何かあったら連絡が取れるようにと携帯電話をくれて帰っていった。
大丈夫…とは言われても手術に絶対はない。
それは普通なら恐ろしいモノなのだが、その日になればまたギルが来てくれる。
そう思えば、それは孤独な少年アーサーにとって随分と待ち遠しい日になっていた。
0 件のコメント :
コメントを投稿