会議室で倒れたアーサーを医務室に運びこみ、そう医者に判断された瞬間、アントーニョは力が抜けて、その場にしゃがみこんだ。
「平気か？アントーニョ」
気遣わしげに声をかけてくるロマーノに
「平気やないわ…腰抜けて立てへん」
と答えると、かたりとベッド脇にしゃがむアントーニョの横に椅子が置かれた。
「せめて椅子に座っとけ」
と、言うのはギルベルト。
あれだけ敵対心丸出しに睨みつけられていた事など全くきにかけていないその様子に、理不尽な怒りだとわかっていても、アントーニョはむっとする。
「自分…余裕やな。なんやったか…キクちゃんとこの言葉で…敵に砂糖送る？」
「それ…敵に塩じゃねえか？」
「そう、それやっ」
ため息まじりに振ってくる声。
「ま、今のお前には砂糖の方がよさそうだけどな…すげえ疲れた顔してる。」
「そりゃ当たり前やろ。いきなり目の前でアーサーに倒れられてんもん」
よっこいせとオヤジくさい掛け声とともにアントーニョはいったん立ち上がって、椅子に座りなおす。
「昔もよお無理して倒れる子ぉやったけど…こんな変わった方がええとこばっか変わらへんで、こっちの寿命縮めてくれるんやもんなぁ…ほんましゃあない子や。」
アントーニョはソッと手を伸ばしてアーサーの血の気の引いた頬に触れる。
考えてみればこうして触れるのはあの最後の逢瀬以来だから、数百年ぶりか…と思ったら何か胸のうちからこみあげてきて、涙がこぼれ出た。
「ギルちゃん、自分、今この子と親しいんなら無理せんように言うたってや。」
「…自分で言えよ。お前…昔つきあってたんだろ？」
ロマーノから聞いたのだろうギルベルトの言葉に、アントーニョは
「俺は別れたつもりないねんけどな…」
と、答える。
「…今でも…好きなのか？」
「当たり前やん。俺の唯一にして絶対や。この子になんかあったら生きておられへん。今もほんま心臓止まるかと思ったわ。」
本当に…自分の方が死ぬかと思った。
こんなに長い間触れることも叶わなかったばかりか、目の前で一人死なれるくらいなら、いっそ最後に思いを交わしたあの夜に、二人して海に沈んでしまえば良かったと思った。
「この子おれば何も要らんねん…。俺の世界そのものや。」
アントーニョが長い褐色の指先でソっとアーサーの額にかかった髪をかきあげて額にキスを落とすと、かがんだ拍子にチャリンと十字架が第２ボタンまでを外したシャツの間からこぼれ出る。
「その十字架…？」
「ああ、これ。もとはアーサーのやねん。イングランドも一時はカトリックやったさかい…。俺が初めて会うた頃には身につけとって、それから最後に会うた日まで…。会えへんなら代わりにって黙ってもらってもうたんや。内緒やで」
アントーニョは人差し指をたててそれを唇にあててそう言うと、またそれをシャツの中に戻して、今度はこぼれ出ないようにシャツのボタンを留めた。
「ほんま…こんなに近くで顔見んの何百年ぶりやろ……」
アントーニョのエメラルドグリーンの瞳が愛しげに細められる。
「…そんなに好きならなんで言わねえんだよ。」
「言わせてもらえへんのや。言おう思うて近づいたら逃げられてまうし…」
そう言いつつアーサーの髪をなでつける手は普段の粗雑さからは考えられないほど繊細で優しい。
「逃げても気にせず追いかけて追いかけて押しつけんのがお前じゃねえか」
ギルの言葉にアントーニョはちょっと困ったような笑みを浮かべる。
「この子はあかん。傷つけるような真似絶対にせえへんて決めたんや。強引になんてしたら傷つけてまうやん？」
大切にしたいねん…と、本当に愛おしげに言うアントーニョにギルベルトはさらりと問う。
「横から掻っ攫われても…か？」
「掻っ攫った奴にはむっちゃ腹立つやろうけどな。」
即答するアントーニョに、ギルベルトはハ~ッと大きく息をついてうつむいた。
「なあ…耳ふさぐ手を強引に押さえつけてでも聞かせないとダメな事ってあると思うぜ？特にアーサーみたいな奴はな。強引にでも誤解といてやらないと、かえって傷つけ続けてるかもしれないぞ？」
「なんやそれ？どういう意味？」
「お前さ…やっぱあれだよな…NOUKINっていうか…」
ギルベルトは天を仰いで肩をすくめた。
その呆れたような様子にむっとしつつもアントーニョはギルベルトの言葉を待つ。
「逆の立場になったとして考えてみろよ。惚れてた相手をある種正当じゃないかもしれない方法で蹴落としちまってだな、それで相手が怒って自分をずっと嫌ってると思い続けてるのって、結構つらくねえか？」
言われて想像してみる…が、そもそも自分がアーサーを陥れるという仮定自体がなりたたない。しかしもしアーサーに嫌われていると考えたら……
「あかん…死にたいわ。」
まあ元々が惚れていたのは自分の方で、アーサーがどこまで自分を好きだったのかは謎で、今も好きでいてくれているのかはもっと謎なわけだが…自分とアーサーがもし逆の立場だったとしたら、死にたい。
「…アーサーは…まだ気持ち残してくれとんのかなぁ…」
「そりゃそうだろ。逃げるっていうのは相手から拒絶の言葉聞きたくねえからだ。どうでもいい相手だったらせせら笑って終わりだろ。」
そう…なんだろうか。
そうだといいんやけど…と、アントーニョはいまだ眠り続けるアーサーを見下ろす。
自分が頑張ればもう一度…この子を取り戻せるのだろうか…
「1か月だ。」
唐突にギルベルトが言った。
「なん？」
「猶予。それを超えたら掻っ攫うぞ？」
にやりと自信ありげな笑みが腹立たしい。
「殺すで？」
ふつっと腹の底から数百年前のあの日…覇権国家になってイングランドを奪い取るとフランシスに宣言した時のような激しい感情がわきあがってきた。
「殺せるかよ。この俺様をっ」
ハっと鼻で笑うギルベルトにカッとしてアントーニョが立ち上がると、ギルベルトは
「ま、せいぜいあがいてみろよ？太陽の沈まない情熱の国」
と言ってクルリと反転。
肩を軽くすくめると、そのまま部屋を出て行った。
「言ってくれたやないかっ。この子は俺のや。渡さへんでっ」
ギラリと太陽が燃え上がる。
絶対に取り戻して見せる！くすぶっていた炎が再度激しく燃え上がった。
激しい戦闘を数百年も続けて国土を再度奪い返した国の成り立ちからは考えられないほど、いつも甘やかで優しい触れ合いで始まる。
優しい笑みを浮かべながらそっと小鳥がついばむように額、頬、鼻先、瞼…そして最後に唇にとキスが落とされ、その頃にはすっかり慣れた体温が恋しくなって甘えた声でねだると、そこで初めて深く深く口づけられた。
呼吸を全て奪い取るようなキス…激しく求められて体の熱があがる。
「アーサー…好きや…」
熱い吐息と共にささやかれ、また求められる。
ああ…懐かしい…身も心もとろけるようなあの感覚。
切ないが幸せだった日々…。
幸せな夢だ…と思った。
とてもとても幸せな夢。
現実になど戻らないでもいい…このまま眠り続けて夢の国の住人になりたい…。
「…トーニョ……」
長く口にすることの出来なかった…そしてこれからも二度と口にする事が許されないであろう愛称…。
夢の中なら…と、声にすると、
「なん？お姫さんはようやく目ぇ覚めたん？」
にこりと太陽のような笑顔を浮かべるのは、今夢の中に登場していたかつての恋人。
いや…夢…だったのだろうか？
あまりにリアルに残る感触。
現実ではありえない満面の笑み。
何故？と、脳裏を疑問符がくるくる回り、そのパニックが若干収まってくると、今度は脳がフル回転で現実を認識しようと現状を整理し始めた。
今日は確か世界会議最終日で…そう、この前自分の家に突然訪ねてきて昼食を乞うたギルベルトが自分の手料理を食べて倒れて、その後料理を教えてやるからドイツでの会議後に家に来いと言われて行く約束をしていたので、待ちがてら片づけを手伝っていたのだ。
そうしたらアントーニョがすごい目で睨みつけてきて……何か怒りながら近づいてきた気がする。
敵対したアルマダの海戦には実は自らは出陣していないので、直接アントーニョに敵意をぶつけられた事はないアーサーは、アントーニョから明らかに怒りの表情を向けられた時点で動揺しすぎて、それからの記憶があまりない。
腕を掴まれて何か言われた気はする。
それから一切ビジュアル的な記憶がなく、今医務室にいるという事は、気を失ったのかという結論にいたる。
ということは…とりあえずまだ自分は何か怒られているはず。
笑顔を向けられていたというのは、夢をひきずっていた自分の目の錯覚なのだろう。
なまじ昔の優しくされていた頃を思い出した後だと、嫌悪をむけられるのはきつい。
いや、思い出した後じゃなくてもつらすぎて、死にたくなる。
だってもう何百年も前からずっと好きだった相手なのだ。
相手から好きだと言われた時は夢かと思った。
それは最後の思いやりだったのか、きっとかけたかったであろう怒りの言葉も罵りの言葉ものみこんだまま、ある日、当たり前に愛を交わした翌朝目覚めたら隣から消えていた。
そんな風に一人でベッドに取り残されたのは初めてで、自国のしていた事を考えればいつ別れがきてもおかしくない状況で、覚悟をしていたはずなのに、その日アーサーは冷たいシーツに顔をうずめて一日中泣いたのだ。
それは本当に最悪の記憶で…それ以下の出来事など起こるはずがないと思っていたが、今あの時かけられなかった罵りの言葉をかけられるのかと思うと、一気に血の気が引いた。
逃げなければ…
それは自分が壊れてしまわないための自己防衛本能だった。
体が壊れてしまうのはまだいい。
でもなまじ国なので死ねない…心だけが死にそうな痛みを抱えてのたうちまわるのだ。
「迷惑をかけてすまなかった。礼はきちんと後日するから…」
目が回り胃が痛み、心臓がしめつけられるように苦しくなるが、構ってはいられない。
アーサーは慌てて起き上がってベッドから抜け出た。
「ちょ、待ったっ！」
腕を掴まれて目の前が揺れる。
吐き気がこらえきれず、こみあげてくるものを吐き出したら、口に当てた手が真赤に染まった。
7月…アルの誕生日前後にはたまにある事だが、そのほかの季節では初めてだ。
一気に血を失ったせいか、眩暈がひどくて視界がかすむ。
アントーニョが何か叫んでるが、聞き取れない。
ふと気付くと抱き寄せられていて、アントーニョのスーツも赤く染まっている。
もしかしてこの事…か？
「…悪い…」
と言って離れようとするが抱き寄せるアントーニョの力も強いし、自分も力が入らない。
「大丈夫…だから……」
放してくれと続けようとしたら、またこみあげてきて血を吐いた。
ああ、もうここまで汚したら手遅れだろうか…弁償できるような類のものならいいんだが…誰かのプレゼントとかだったらどうしようか…これ以上大切な何かを奪ってこれ以上嫌われたくないのに……
こみあげてくる血でうまく呼吸が出来ない中、そんな事を思ったのを最後にアーサーの意識は途切れた。
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