揺れる電車。
学校までは電車で1本。
乗車時間は30分ほどで長くはないが、都心に向かういわゆる登り電車なため、混雑がすごい上、まず座れない。
よく満員電車の比喩で使われるすし詰めという言葉を造ったのは絶対に関西人だ。
スシはスシでもちらしや握りではなく、これはまぎれもなく押し寿司だ…と、アーサーは日々思う。
高校に入って3年目。
そんなスシ詰めの電車にもいい加減慣れはしたものの、たまに辛い。
特に今日のように体調が宜しくない時は……。
親は仕事で海外なので1人暮らし。
元々あまり体力には自信がない上、料理の腕も少々もにょもにょで、さらに1月ほど前、同居していた従兄弟が出て行ってしまってからは自分のためにだけ食事を用意するのもおっくうになった。
従兄弟がいる時は必ず朝昼晩作ってた食事も1人だと作る気がせず、かといって買いに行く気力もない。
食べないでいいや…とウーロン茶だけ飲んで一日過ごすとかそんな日もあって、色々がボロボロだったせいだろうか…
最近体調が宜しくない。
よく貧血を起こす。
今も満員電車に揺られながら、少し右半身に痺れが走る。
あ…これは来るな……と、何度か経験したそれに、アーサーはまずい…と思った。
だんだん周りの空気が迫ってきて圧迫されるような感覚に襲われる。
…気持ち悪い……
吐く事はないのだが、吐き気を覚えて目を軽く閉じた。
本格的な貧血の前触れに、アーサーは焦る。
165cmと高3にしては小柄なので、周りにいる多くのサラリーマンに埋もれて呼吸すらままならず、このまま倒れたら踏みつけられるのでは…と、額に脂汗を掻きながら思う。
だめだ…まずい……
本格的に世界が揺れ始めて限界がきた。
膝から崩れ落ちる……
が、その直前にいきなり支えられる身体。
「気分悪かったら、俺様につかまっとけ」
と、上から降ってくる声。
誰なのかなど確認する余裕はない。
とにかくここで倒れても困るので、なんとか
「…ありがとうございます……」
とだけ言って、引き寄せられた肩口に額を預けると、石鹸の良い匂いがした。
そうして電車が駅につく。
もちろん自分が降りる駅ではないが、そんな事は言ってはいられない。
――いったん降りような?
と言ってくれる声に頷いて、肩を貸してもらって電車を降りた。
とたんに新鮮な空気が周りに満ちるのがわかるが、圧迫感は収まらない。
足の力ももどらない。
とにかく座りたい…と思っていたら、
――ちょっと座っておけ。
と、ベンチに腰掛けさせられる。
そうして相手が離れていく気配。
ああ…親切な人だったな…と思うと同時に、礼もロクに言えなかったのを心苦しく思った。
こんな時間帯だ。
相手だって通勤で忙しいだろうに、アーサーを助けるために電車を一本乗り過ごす事になったのだろうし、ギリギリの時間で遅刻したりとかしなければいいな…と、本当に申し訳なく思う。
まあ、もう確認しようがない相手の事は、とにかくとして、さて、自分はどうするか…。
すぐには動けない。
しばらく休んでいたら遅刻は確定だが、まあ普段は真面目に行っているから出席日数は問題ない。
そんな事を考えていたら、前方に人の気配。
偶然そこに立っているにしては近い距離だと思っていたら、相手は目の前にしゃがんで少し下からアーサーに視線を合わせるように見上げて来た。
「大丈夫か?これ、今買ってきたからちょっと飲め」
差し出されたのはミネラルウォータのペットボトル。
もしかしてさっき助けてくれた相手か?
あ…お金……と、鞄を探ろうとしたら、小さなため息と共に空いている方の手でそれを止められた。
「このくらいは別に良いから。
体調崩したお子様のために買ってきたもんで金取ろうとか思ってねえよ。
素直にもらって飲んでおけ」
と言われて、普段ならもう少し色々考えたのかとは思うが、とにかく気分が悪かったので礼だけ言ってそれを受け取ると、冷たい水を飲みほした。
そこでだいぶ思考がクリアになってくる。
それまでは気分が悪すぎてロクに相手を見ていなかったが、目の前にいるのは目の覚めるようなイケメンだ。
おそらくサラリーマンなのだろう。
きちんとスーツを着こなしているのだが、そのスーツの上からでもどことなく筋肉質でスタイルが良い事が伺える体躯。
綺麗な銀色の髪に彫像のように整った顔立ち。
そして何より特徴的なのが、強い意志を窺わせるキリッとした切れ長の真紅の瞳。
最高級のルビー、ピジョンブラッドのように綺麗に澄んだその目が気遣わしげにアーサーを見つめていた。
それに気付いた時に思ったのは、どうしよう…だ。
いや、何がと言われても困るのだが、動揺した。
「…熱…出て来たのか?」
と、アーサーよりは大きな少し骨ばった手が額に触れてきて、つい動揺しすぎてすくみあがったら、
「あ…悪い」
と、すぐその手は離れて行った。
貧血の感覚はいつのまにかなりを潜め、今はただただ恥ずかしい。
こんなイケメンが駅でしゃがみこんでいるのだ。
周り…特に女性達がざわざわとざわめきながら、こちらを見ている気がする。
いや、気がするではなく、実際に見ているのだろう。
…か?
…おい、電話番号わかるか?
無意識にぎゅっと目をつぶったまま膝の上で拳を握りしめていたアーサーに、相手はさきほどから話かけていたらしい。
それに気づいてアーサーは慌てて目をあけた。
「え?電話…番号?」
と、かろうじて聞き取れた言葉を繰り返すと、相手は反応があったことにホッとしたようだ。
「そそ、お前学生だろ?
どうやっても遅刻だろうし、学校の番号わかるなら遅れるって連絡だけはいれておけよ」
と、自分の携帯を差し出してくれるが、
「あ、大丈夫。
自分の携帯持ってますし、番号は…生徒手帳にあるので…」
と、アーサーは今度こそ自分の鞄をさぐって携帯を取り出した。
こうしてアーサーが学校に電話をかけている間、相手も会社に電話をかけていたらしい。
「あ~、わりっ。大丈夫、システムの方は今日中に何とかできっから。
おう、じゃ、午後には行くから」
電話が終わったアーサーが聞き取れたのはそれだけだが、どうやら相手も会社を遅刻する事になったらしい。
通話を終えて電話をしまった相手に、アーサーは青くなって頭を下げた。
「す…すみませんっ!
あなたまで遅刻させてしまって……」
と身をすくめるアーサーの頭を、相手はクシャクシャと撫でて
「気にすんなよ。
あれ放置したら自分がずっと気になってしょうがねえと思って勝手にやったことだから、お前のせいじゃねえよ。
体調悪い時くらい大人に甘えとけ」
と、笑った。
整いすぎるくらい整っているせいで近寄りがたい印象を与えかねない顔が、笑うととても気さくで親しみやすい雰囲気になる。
「俺はギルベルト。ギルベルト・バイルシュミットだ。
一応これ名刺な。怪しいモンじゃねえから。
1人でこっちで働いてるんだけど、自国のドイツにお前と同じまだ中学生の弟がいるから、なんだか放っておけなくてな」
という言葉と共に渡される名刺。
…ワールド商事システム課課長ギルベルト・バイルシュミット
アーサーも聞いた事のある会社だ。
そこの課長?若く見えるが結構年齢がいっているのだろうか…
「ん?どうした?」
「ギルベルトさん…若く見えますけど、課長って……」
「あー、俺様、今25な。
役職は…結構早く勤めてるからじゃね?
スキップ繰り返して18で大学卒業してっから入社7年目だし?」
…うん…神は二物を与えないというのは嘘だった。
イケメンで頭良くて仕事出来てコミュ力高そうで?
なんだそりゃ……
ため息しか出ない。
まあ…世の中には色々な人間がいるということで…
それよりもう一つ聞き捨てならない事を言われた気がする。
「あと…俺、中学生じゃなくて、高校生です…」
「へ??」
あ…出来るイケメンて間抜けヅラでもイケメンだ…と、ぽかーんと呆けるギルベルトを見てアーサーは現実逃避のように思った。
うん…まあ童顔でよく間違えられるけど……
「えっと…3年…だから3本ラインなのかと思ってたんだけど……」
と言いつつギルベルトがチラリと見るのはブレザーの胸元の3本線の入った小さなバッジだ。
「ええ、そうです。
だから高校3年生ですけど…」
「まじかーーー!!!!」
そんなに驚かなくても…と思うくらい驚かれてアーサーは複雑な気分にはなったが、相手は恩人だ。
怒ってはいけない。
「アーサー・カークランド。高校3年生です」
と、名刺はないが生徒手帳を見せると、ギルベルトは目を丸くして、次に
「ごめんな~~!やけに可愛いんで中学生かと思ってたぜ」
と、悪びれた様子もなく、またクシャクシャと頭を撫でまわした。
もうあっけらかんとしすぎてて怒る気も失せる。
というか、本来はパーソナルスペースが広すぎる人見知りのアーサー相手でも全く緊張させないのが凄いと思う。
最終的に一通り驚いて笑って騒いで、
「ま、俺様からしたら子どもなのは変わんねえけどな」
というところに落ちついたらしい。
賑やかな彼につられて膨れて拗ねて笑って…いつのまにか回復していた体調をみてとったのか、
「じゃ、学校まで送るわ」
と、ギルベルトは当たり前にそう言って立ち上がった。
え?ええ??
「何言ってるんですか、ギルベルトさんも会社でしょ。
俺もう大丈夫だから…」
差し出された手を掴むと強い力で立たせてくれる相手に驚いてそう言うと、
「んー会社の方には午後から行くって連絡入れたから平気」
と、ギルベルトは笑って言う。
が、さすがに学校までは悪い。
「俺の学校この沿線で駅から10分だから大丈夫です」
と、固辞すると、ギルベルトはちょっと考えて、
「じゃ、最寄駅までだな。俺様の会社はその先だし」
と、そこはあっさり引いてくれた。
そして学校最寄駅。
当たり前に一緒に降りるギルベルト。
「ちょっとさっきの名刺貸してくれ」
と言われて渡すと、その裏にさらさらと万年筆で書かれる数字。
「これ、俺様の携帯だから。
気分悪くなったりしたらすぐかけろよ?
戻って来てやるからな?」
と言ってまた渡される名刺。
「…ありがとうございます」
と礼を言うアーサーに、
「あと仕事じゃねえんだから、敬語は禁止な。
さんも要らねえ。ギルでいいから」
と言うので
「ありがとう、ギル」
と、言うと、
「おう、気をつけて行けよ、アルト」
と、ギルベルトは自国の発音の愛称らしい名称でアーサーを呼ぶと、小さく手を振って次の電車に飛び乗って行った。
それがアーサーとギルベルトの出会いだった。
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